今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞
と云ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏
の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れま
る鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。
「遠野物語69(抜粋)」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「遠野物語69」には「魔法」という言葉が出て来るが、本に付属の補注を読むと修験の行者や民間の見者にも似たような法力を使えるとある。しかし蛇を呪いで殺すとか、木に止まっている鳥を落とすなど、法力を持った修験者であっても、実際には出来る筈の無い事である。ただし「蛇除け」とか「鳥除け」を札などで呪いを施すというのはある筈だ。
古くは「古事記」で大穴牟遅が根の国でスサノヲからの試練の一つに蛇の部屋に入ったのを須勢理毘売から貰った「蛇のヒレ」で助かるくだりがある。この「蛇のヒレ」は学者によれば、物部氏に伝わる
「十種の神宝(とぐさのかんだから)」のうちにある
「蛇比禮(へびのひれ)」であるという。この物部氏に伝わる「十種の神宝」には他に
「蜂比禮(はちのひれ)」「品物比禮(くさぐさもののひれ)」などがあり、これらにより様々なモノから除ける事ができるようだ。つまり蛇を殺すという非現実的なものではなく、殺すを"除ける""抑える"と理解すれば、この「遠野物語69」の"殺す魔法"というのは納得するのだ。ところでこの話に登場する佐々木喜善の祖母の姉"おひで"は、こういう呪いをどこから覚えたのか…。
ところで気になるのは、遠野市松崎駒木の高瀬遺跡から上記のような「物」もしくは「物部」と書かれた墨書土器が出土されている事だ。また「地子稲得不」と読める墨書土器も出土しているが、専門家によれば「地子稲」とは、菅のを農民に貸与して得る地代の稲であり、東北においては国家に服属した蝦夷の食料にあてるような名目のものであったという説明が成される。
ただ
「東日流外三郡誌」によれば
「大化丁未三年(647年)、物部一族東日流大里を拓田し稲を植しむる」とある。また
「白雉甲寅五年(654年)、東日流入潤郡酋長乙部と物部氏合族し、茲に天地八百万神崇拝弘布伝はる」とある事から、蝦夷の地に物部氏が移り住み、物部氏の持つ文化と技術が広がったものだと考えて良いのだろう。水沢の天台宗の妙見山黒石寺にある薬師如来坐像(862年)の胎内銘にも「物部」とある。ただ黒石寺での物部氏は関東から流れた物部氏であろうという事であるが、遠野の高瀬遺跡の物部氏は、年代からすればやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏の流れでは無かったろうか。「東日流外三郡誌」の記述から察すれば、蝦夷は物部氏の技術と文化を受け入れたという事だろう。
進藤孝一「秋田「物部文書」伝承」を読むと、物部氏の哀しいまでの中央志向の意思が読み取れる。本来は蘇我氏に敗れるまでは朝廷の中心にいたのだが、蝦夷の地に逃げ延びて尚、戦の度ごとに朝廷側に付き武功をあげて、あわよくば中央に戻りたいという意思の元に、益々衰退していった物部家の歴史のようでもあった。
その物部氏の末裔が遠野にいたという事は当然、稲作の技術を伝えただけでなく、祭祀や呪いをも伝えたのだと考える。しかし物部氏は東北各地に逃げ延びて名を変え移り住んだようで、秋田県のように大きな神社の祭祀を司っているならば、その歴史もわかるのだが、それ以外の地における物部氏の痕跡は定かではない。当然の事ながら、遠野における物部氏の痕跡も不明瞭だ。しかし、もしも物部氏の痕跡があるとすれば祭祀や呪いに関するもの…つまり「遠野物語69」における"魔法"と呼ばれるものがもしかして、物部氏が伝えたものである可能性は否定できないものであろう。