同じ町の上組町でも、太師様の像に縄を掛けて、引きずり回して
喜んでいる子供達があるのを、ある人が見咎めて止めると、その
晩枕神に太師様が立たれて、面白く遊んでいるのに邪魔をしたと
お叱りになった。これもお詫びして許されたそうな。
「遠野物語拾遺54」
仏像と子供達が戯れて、それを咎めた大人が罰にあたる話は無数にある。ここでは大師様と書かれているので弘法大師と間違えそうだが、上組町にあるのは太子堂であり、祀られているのは太子様の像であって、聖徳太子であるようだ。この太子信仰は
"まいりの仏"などとして、聖徳太子を信仰していた親鸞を開祖とする浄土真宗が東北地方に広がった事に繋がるとされているのが一般的だ。
二日町の光明寺にも、太子信仰らしきが伝わる。しかし現在、この太子信仰が何故に光明寺に伝わっているのかは、定かでないようだ。この光明時は曹洞宗だ。しかし開山となって祀られたのは阿弥陀如来。曹洞宗は普通釈迦如来像を祀る筈で、阿弥陀如来像を祀る宗派は浄土真宗だ。開山の逸話はわかるが、何故に阿弥陀如来像を祀るのか?また聖徳太子の像と絵が飾られているが、これは「まいり仏」の一種で、やはり浄土真宗が行って来た事。
岩手県の浄土真宗は親鸞の高弟である是信房と、その門下が伝えたのだという。是信房の死後もその後継人である和賀一族が伝え広めたのだが、殆どは紫波、稗貫、胆沢一円であるというが遠野にも「まいりの仏」は民間に入り込んでおり、当然の事ながら遠野地域も影響を受けているのだろう。
井上鋭夫「山の民・川の民」では、この太子信仰に言及している。太子とは本来「王子」であり、後に聖徳太子に結び付けられてはいるが「金」との関係の深いものであるようだ。
採掘・産金は鉱山関係者でもある修験者が信仰する神や仏があり、それに使役する者達…ここでは「非人」が例えば熊野・八幡に対する若宮・山王に対する王子のようなもので、非人が信仰するものは修験者よりも一段低い信仰対象が与えられたようだ。その非人達は職人でもあり金堀り・鋳物師・木地師・杣人・塗師等々であったよう。「
遠野物語拾遺275」の一部を抜粋すると
「二十三日の聖徳太子(大工の神)」とある事から、やはり非人であった職人達に聖徳太子信仰が根付いていたのだろう。しかし太子信仰を伴う職人の大元は、採掘から広がったようでもある。
「遠野物語拾遺54」の太子像の顔が異様に白いのは、顔に"お白い"を塗って願を掛けていた為だ。この顔に塗る"お白い"とは鉛白であり、その歴史は持統天皇時代に遡る古いものであったが、一般に広がったのはそれ以降の様だ。また水銀を原料とする"お白い"もあった事から、とにかく"お白い"には、何やら金属加工者の匂いが感じられる。何故なら、金属加工の工場があるから"お白い"は取れるからだ。
信仰対象である聖山には、本地である仏菩薩などが宿ると信じられていた。仏菩薩はまた「黄金」と見立てられており、聖山は修験者から「金山」と称されていたようだ。羽黒山は岩山であるが、こういう岩山は山の精が凝縮していたと信じられていたようで、岩は星とも見立てられている為「星→岩→山の精→鉱物」であったのだろう。そういう山の岩窟には仏像を祀る信仰があったのも「黄金→仏菩薩」であった為に仏像を祀る事により、その山が「黄金を産む山」であると定められたようである。画像は、遠野の仙人峠にある観音窟であるが、伝承では坂上田村麻呂が蝦夷征伐をした後に観音像を祀ったとあるのはつまり、鉱山開発をするという証でもあったのでは無かろうか。この観音窟の伝承は上郷町の日出神社にも関係がある。日出神社にはやはり採掘・産金との関係が深く、早池峯山にも繋がる事から、この観音窟に祀られた仏像とは、おそらく十一面観音であったのだろう。
修験者にとって「金」とは財産価値よりも、聖なる価値を持つものとして崇められ、それを仏であり観音であり"光明"であると説いている。つまり太子信仰が伝わる二日町の"光明寺"という名の由来も本来、そこからきているのではないだろうか。
もう一度、井上鋭夫「山の民・川の民」に戻れば、北陸においてタイシと呼ばれる者達がおり、それを別に「退士」とも称し、戦に敗れた落人でもあったとされる。遠野だけでは無いが、鉱山の労働者には、脛に傷を持つ者達の集まりであった。その中には隠れキリシタンもおり、また確かに"退士"でもある落人もいたようである。井上鋭夫によれば、タイシと呼ばれる者は山の民であり採掘をする者達。それが川の民と結び付いたのは、採掘した鉱物を川を利用して運ぶ為の結び付きであると説いている。
光明寺のある二日町は遠野の出口でもある綾織に属する。その綾織にあるいくつかの寺を見て回ると、周辺の人達から預った太子像や、隠れキリシタンであろう仏像がいくつも保管されているのは、鉱山開発に従事する人達がかって多くいたという証になるのではなかろうか。東和町の兜跋毘沙門天像は、猿ヶ石川を睨む形で祀られているのは、遠野に住む蝦夷が猿ヶ石川を利用していたからだという。その猿ヶ石川は、いろいろなものを運搬していたのだろうが当然、鉱物も運搬していたのであろう。
古代から起きている戦いの殆どは「金」の争奪戦であったからだ。綾織を過ぎて次に重要な地点は鱒沢であったのだと考える。この鱒沢は、いくつもの金山を有する小友町の合流点でもあり、東北に経塚を初めて広めた奥州藤原氏の影響も受けているかのように、小友町の山谷観音堂には、遠野で一番古い経塚があった。遠野盆地の自慢は、遠野を囲む全ての山々が水源地であるという事だ。その遠野を囲む山々から鉱物が川を伝って集めまとめられ、その出口は綾織であり、また鱒沢であったかもしれない。太子信仰は、鉱山開発に従事した人々の名残であったのだろうと考える。