画像の絵のように、鈴鹿権現は立烏帽子に長刀を持った姿で表される。ここでどう考えても女性に立烏帽子という姿は、白拍子より時代を遡らないのだ。ところで細川涼一「逸脱の日本中世」を読んでいると、謡曲「井筒」の紹介があった。ストーリーは省くが、在原業平に惚れた女が死んだ後、在原業平の衣装を纏い、衣を通して在原業平の魂を受けて舞うというもの。つまり死んでも尚、女性は霊媒師のように惚れた男の魂を宿して舞う。それを行わせるものは、衣装であった。
また別に、有名な静御前の女人禁制侵犯の話が紹介されていたが、確かに神に仕える身は、そういう意識にもなるのだろう。「遠野物語拾遺12」でも、巫女が女人禁制の山に登り、石となった話があり、こういう話は全国的に多い。また別に、謡曲「道成寺」でも女人禁制の場に、男の出で立ちをした白拍子が侵入し、果ては蛇体となるのだ。
とにかく白拍子は、平安末期の院政期頃…所謂、天皇を引退し上皇となった者達が政事を行った時代だ。その院政時代から白拍子は現れ、鎌倉時代になって流行したのもやはり、静御前の影響が、かなりあったのだろう。その静御前と鈴鹿御前の音が似通っている為、岩手県に伝わる伝説にも、かなり混同されている面があるようだ。一体、静御前なのか鈴鹿御前なのか?
ところでだ、静御前は金峯山に義経と一緒の登ろうとした。それは男装していたから静御前は登れるのではないか?と思ったというのが、研究者たちの一般的見解である。秋田県に以前、金峯山として呼ばれた山があり、その原初は顎田山と呼ばれた山があった。阿倍比羅夫の顎田遠征に際し、蝦夷である恩荷が登場し、弓は狩猟のみに使うのだと"顎田浦の神"に誓い、それを阿倍比羅夫も理解したというのは、阿倍比羅夫にも理解できる"顎田浦の神"の海の神であろうし、海峡の神でもあろう。その顎田浦の神と同じ名前の顎田山の山の神として祀られていたのは、瀬織津比咩であった…。
金峯山は金を採る山でもあり、鉱山開発や踏鞴などの文化が発展した山であった。踏鞴師は立烏帽子を被るのを常としたのは「鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の五)」で紹介したが、吉野裕子によれば立烏帽子とは蛇の象徴でもある。ならば世阿弥作「道成寺」において、立烏帽子を被った白拍子が蛇体(龍)に変化したのは、本来山の女…つまり山の神とは、そういうものであるとの証明とならないだろうか?世阿弥は、秦氏の血脈が流れている。秦氏と瀬織津比咩の関係は、ここでは長々と語る気は無いが、山の神が男であるか女であるか、未だに謎とされる事に触れる気がするのだ。
古来から伝えられる瀬織津比咩の姿の一部分が立烏帽子を被った姿でであるならば、それは山の神として女神でありながら男神でもある姿なのかもしれない。それは先に紹介した、やはり世阿弥作「井筒」がそれを語っている。岩手や鈴鹿山における伝説では、どちらも鈴鹿御前は、坂上田村麻呂と恋仲になっているのも、一つは立烏帽子姫と云われる姿こそが坂上田村麻呂の魂の衣を纏って「征夷」という言葉で繋がった形であろう。それとある意味、立烏帽子姫が坂上田村麻呂の味方についたというのは、山の姫神の御加護を受けたという意味合いにも通じる。それも結局は、勝者側が創った伝承であり、坂上田村麻呂の英雄譚を創り上げる権威付けでしか無いだろう。信じるかどうかは別として「田村家御書管」には、違う事が書かれているのだから。
ところで、いくつかの風土記には"荒ぶる神"として逃げた男神に対して怒り、旅人を殺す伝承がある。つまり山には以前、男神と女神がいたのだが、男神が去った為に荒ぶった女神が山に居座ったという事だ。女神が怒ったのも、男神を想うからであり、男神がいなくなった後にも居座り続けるのは、男神への想いを抱き続ける事でもある。それが立烏帽子を被った姿である可能性は、あるかもしれない。何故に静御前が白拍子の姿のまま金峯山に登ろうとしたのかも、実は山の姫神の姿と同じものであったのだと知っててのものであったかもしれない。そしてそれを教えたのは、源義経であろう…。