猿の経立、御犬の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子ども此山を見るに、処々岩の上に御犬うづくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるようにしてかはるゝ吠えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後ろから見れば存外小さしと云えり。御犬のうなる声ほど物凄く恐ろしきものは無し。
「遠野物語36」
遠野の狼は、明治の半ばまでいたのだという。その絶滅を導いたのはジステンバーが流行ったからだとも云うが、あまりにも狼の被害が酷かったので、懸賞金を出したというのも、狼を滅ぼ要因にもなったのかもしれない。明治維新後、最初の岩手県令の島維精が懸賞金を出して、狼退治を奨励した。牡狼五円、牝狼七円、子狼二円だったという。その当時の米の値段が、白米一升四銭前後であったそうだから、皆がこぞって狼を捕り、絶滅に向かわせたというのも納得出来る。
夕暮れに「モウコが来るから早く帰って来い!」と、昔よく親に言われたという人がいる。実は、自分の子供の時代には、もう既に死語と化していた。そこでご年配の方々に聞くと、かなりの人がやはり”モウコ”は怖いものだという意識を持っていたという。
ちなみにこのモウコは別に、モッコとも呼ばれている…。
ところが”モウコ”とは…と聞くと、全員が「蒙古襲来のモウコじゃないの?」という。遠野の60代~80代の人達の意識は、モウコ=蒙古のようだ。確かに蒙古は日本にとって恐ろしい民族だったのだろうが、この東北の、更に岩手の片田舎で蒙古とはどんなものか…などという意識があったのだろうか?
現在、遠野で一番売れている新聞は岩手日報である。何故かというと大抵は、死亡欄チェックに必要だからなのだと…。つまり国外で戦争が起きていたり、凶悪な犯罪が都会で起きていようが、地元のニュースの方により耳を傾けるというのが田舎の基本なのかもしれない。
では何故、こちら東北は岩手の遠野に蒙古は怖いものだと思ったのかというと、今現存するご年配の方々はモウコという響きに対し、勝手にモウコ=蒙古と思っていただけのようだ。実際、柳田國男は「妖怪談義」の中で「モウコ」という言葉は、「蒙古襲来」よりも古くから伝わる言葉だと「蒙古説」は否定されている。
モウコという言葉に関して調べてみると、福島では狼の遠吠えを「もぉ~!」と表していたそうだ。ちなみに地元の80代の方に聞いてみたら、やはり狼の遠吠えは「もぉ~!」なのだと。
「モ~」となると今では牛のイメージがあり、ましてや遠野の狼は明治の半ばで消え去ったようであるから、現代において狼の遠吠えを意識している人は皆無だと思うので仕方の無い事だろう。
ところで何故「もぉ~!」が「モウコ」となったかというと、東北特有の接尾語にコを付ける事からのモウコのようである。娘ッコ、べごッコ、お茶ッコ…とにかく最後にコを付けるというのが一般的に広まっている。だから狼の「もぉ~!」に対して接尾語のコを付け足しモウコ、もしくはモッコになったのがどうやら正しいようである。
狼に対する恐怖は、三峰様しかり、このモウコという言葉の広がりからみても、狼は恐怖の印みたいなものだったのだろう。だから蒙古の本当の恐ろしさを知らない遠野の人々には、本当のモウコとは狼だったのだと思う。
中国において、虎はその声を象るという。虎が「フウ」と吼えるその声をそのまま名にしたのだという。「フウ」は、風の語源ともなり、虎は風を呼ぶ。だから現在、沿岸で虎舞をするのは、風を司る虎への信仰からなのたろう。とにかく中国では動物の声を、そのものの名にしたものが、すこぶる多いという文化が日本に流入して、やはり狼の吼える声が「モォ~」から「モウコ」「モッコ」になったのだろう。
御犬の経立を考える時、三峰様の存在は欠かせないものだ。
この地方で三峰様というのは狼の神のことである。旧仙台領の東磐井郡衣川村に
祀ってある。悪事災難のあった時、それが何人のせいであるという疑いのある
場合に、それを見顕わそうとして、この神の力を借りるのである。まず近親の
者二人を衣川へ遣って御神体を迎えて来る。それは通例小さな箱、時としては
御幣であることもある。途中は最も厳重に穢れを忌み、少しでも粗末な事をす
れば祟りがあるといっている。一人が小用などの時には必ず、別の者の手に渡
して持たしめる。そうしてもし誤って路に倒れなどすると、狼に喰いつかれる
と信じている。
前年、栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、何人かに綿カセを盗まれたことが
ある。村内の者かという疑があって、村で三峰様を頼んで来て祈祷をした。その
祭りは夜に入り家中の燈火をことごとく消し、奥の座敷に神様をすえ申して、
一人一人暗い間を通って拝みにいくのである。集まった者の中に始めから血色
が悪く、合せた手や顔を震わせている婦人があった。やがて御詣りの時刻が来て
も、この女だけは怖がって奥座敷へ行き得なかった。
強いて皆から叱り励まされて、立って行こうとして、膝はふるえ、打倒れて血を
吐いた。女の供えた餅にも生血が箸いた。験はもう十分に見えたといって、その
女は罪を被せられた。表向きはしたくないから品物があるならば出せと責められ
て、その夜の中に女は盗んだ物を持ってきて村の人の前に差し出した。
「遠野物語拾遺71」
ところでこの写真は、大正時代に80歳以上のお年寄りを集めて、高齢者祝賀会の時の写真なのだそうである。 舞台上の人々は、何故か全員兎に扮している…。
熊野では兎を巫伴(みこども)と呼んでいるそうで、これは山ノ神の使いである狼の、近侍し伝令する役割として兎となっているそうな。山ノ神が田ノ神に変わると考えられるなら、写真中に飾っている札に「酒」とか「料理」とか書いているのは、長寿になったのは、山ノ神のおかげで、それを伝え祝う為に兎が登場しているのか?などと考えたりもした…。ただ遠野においては、山ノ神が根強く信仰されているのは確かな事である。