和野の佐々木嘉兵衛、或年境木越の大谷地へ狩にゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあわは也。向の峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走り来るを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢に上りてありしに、其樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。
「遠野物語41」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この大谷地の原は、遠野盆地の東よりであり、沿岸に隣接している場所でもある。遠野盆地の動物達は、より多く、この沿岸地域に隣接した山々に生息している。何故なら、遠野側の天候が荒れれば、沿岸地域へと逃げ、またその逆もあるからだ。特に鹿などは、大雪が降ると生死に関わるので、大抵冬の間は沿岸地域へと移動する。当然、鹿を捕って喰らった狼もまた遠野盆地の東よりに多く生息していたのだろう。
そして、この「遠野物語41」の描写は、狼の中にジステンバーが流行った為の狼の集団狂走なのか、それとも大雪が来る為に、やはり狼が集団で雪の少ない沿岸地域へ移動している情景なのかは定かではない。ただ、
バリー・ホルスタン・ロペス「オオカミと人間」によれば、数百頭の狼が移動する話は、伝承に過ぎないと述べている。狼は多くて20頭程度の群れを形成するが、それは獲物の多い地域に比例するようだ。つまり、多くの狼が移動する地域とは、獲物である鹿などが多く生息する地域となる。
千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」によれば、遠野から沿岸寄りに聳える五葉山周辺が鹿の生息数がずば抜けて多かったようだ。それに伴い、狼の生息数も多かった。そして絶滅に関してだが、ニューファンドランド島のオオカミが絶滅したのは、人間の乱獲によるものではなく、ただ自然に消えたのだと報告されている。また北ロッキー・マウンテンオオカミがいなくなったのは恐らく、マッキンレー・バレーオオカミと交雑した為だと考えられているようだ。日本狼の場合、江戸の後期あたりでは大神の群れの中に野良犬も混じっていたとの記録もある事から、交雑は行われていたのだろう。他種との交雑によって損なわれる能力に、繁殖能力がある。つまり累代が不可能な個体が生れる可能性を示している。生後まもなくの子狼の生存率は20%程度で、生後5か月を過ぎた頃に、やっと生存率50%近くに上昇する。狼の寿命が長生きでも10数年。つまり、江戸時代から始まった交雑種の影響が、明治時代になりピークに達し、狼の滅亡という結果を導いたのは必然であったか。
沿岸地域への入り口に、土淵村があった。「遠野物語」にも多くの狼に関する話が紹介されているのも土淵である。明治時代の中頃までは三峰信仰もあったようだが、狼の絶滅と共に、ほぼ廃れてしまい、神社や祠を見かける事は無くなった。唯一、写真の祠は現在山神を祀っているというのだが、以前は狼を祀っていたのだと云う。この祠の以前の御神体は、木の根であり、山の木の根元に穴を掘った狼が出産したところから、木の根の一部分を持ってきて祀っていたのだと。それがいつしか、焼物の山の神と摩り替わってしまったのだと。
これは遠野の話ではないが、元々狼は山の神の使いとも思われてきたので、狼が仔を生むと、その場所に団子などを重箱に入れて、置いてくる風習があったのだと云われる。要は、狼に対して出産祝いを献じたという事だ。また遠野では、小正月に「狼の餅」として、山の麓の木の枝や、道路の四つ辻に餅を持っていって置いたそうである。これは昭和時代まで行われていたようだ。