遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
カテゴリ
全体
民宿御伽屋HP
御伽屋・幻想ガイド
遠野体験記
民宿御伽屋情報
遠野三山関連神社
遠野不思議(山)
遠野不思議(伝説)
遠野不思議(伝説の地)
遠野不思議(遺跡)
遠野不思議(神仏像)
遠野不思議(石)
遠野不思議(石碑)
遠野不思議(追分の碑)
遠野不思議(史跡)
遠野不思議(樹木)
遠野不思議(桜)
遠野各地の滝
遠野の鍾乳洞
遠野不思議(自然)
遠野八景&十景
遠野不思議(オブジェ)
遠野不思議(その他)
遠野各地の河童淵
遠野各地の狐の関所
遠野各地のデンデラ野
遠野各地の水車小屋
遠野各地の不地震地帯&要石
遠野各地の賽の河原
遠野各地の乳神様
遠野不思議(淵)
遠野各地の沼の御前
遠野各地のハヤリ神
遠野の義経&弁慶伝説
遠野の坂上田村麻呂伝説
遠野の安部貞任伝説
遠野不思議(寺院)
遠野七観音
遠野各地の八幡神社
遠野各地の熊野神社
遠野各地の愛宕神社
遠野各地の稲荷神社
遠野各地の駒形神社
遠野各地の山神神社
遠野各地の不動尊
遠野各地の白龍神社
遠野各地の神社(その他)
遠野の妖怪関係
遠野怪奇場所
遠野で遭遇する生物
遠野の野鳥
遠野のわらべ唄
民俗学雑記
遠野情報(雑記帳)
観光案内(綾織偏)
観光案内(小友編)
金子氏幻想作品
「遠野物語考」1話~
「遠野物語考」10話~
「遠野物語考」20話~
「遠野物語考」30話~
「遠野物語考」40話~
「遠野物語考」50話~
「遠野物語考」60話~
「遠野物語考」70話~
「遠野物語考」80話~
「遠野物語考」90話~
「遠野物語考」100話~
「遠野物語考」110話~
「遠野物語拾遺考」1話~
「遠野物語拾遺考」10話~
「遠野物語拾遺考」20話~
「遠野物語拾遺考」30話~
「遠野物語拾遺考」40話~
「遠野物語拾遺考」50話~
「遠野物語拾遺考」60話~
「遠野物語拾遺考」70話~
「遠野物語拾遺考」80話~
「遠野物語拾遺考」90話~
「遠野物語拾遺考」100話~
「遠野物語拾遺考」110話~
「遠野物語拾遺考」120話~
「遠野物語拾遺考」130話~
「遠野物語拾遺考」140話~
「遠野物語拾遺考」150話~
「遠野物語拾遺考」160話~
「遠野物語拾遺考」170話~
「遠野物語拾遺考」180話~
「遠野物語拾遺考」190話~
「遠野物語拾遺考」200話~
「遠野物語拾遺考」210話~
「遠野物語拾遺考」220話~
「遠野物語拾遺考」230話~
「遠野物語拾遺考」240話~
「遠野物語拾遺考」250話~
「遠野物語拾遺考」260話~
「遠野物語拾遺考」270話~
「遠野物語拾遺考」280話~
「遠野物語拾遺考」290話~
「現代遠野物語」1話~
「現代遠野物語」10話~
「現代遠野物語」20話~
「現代遠野物語」30話~
「現代遠野物語」40話~
「現代遠野物語」50話~
「現代遠野物語」60話~
「現代遠野物語」70話~
「現代遠野物語」80話~
「現代遠野物語」90話~
「現代遠野物語」100話~
「遠野妖怪談」
「闇・遠野物語」
遠野小学校トイレの花子さん
遠野小学校松川姫の怪
遠野小学校の座敷ワラシ
菊池氏考
佐々木氏考
クワガタと遠野の自然
安倍氏考
阿曽沼の野望
遠野・語源考
河童狛犬考
飛鳥田考
遠野色彩考
遠野地名考
ゴンゲンサマ考
五百羅漢考
続石考
早池峯考
六角牛考
七つ森考
羽黒への道
動物考
月の考
「トイウモノ」考
小松長者の埋蔵金
遠野七観音考
鯰と地震
三女神伝説考
早池峯信仰圏
河童と瀬織津比咩
狐と瀬織津比咩
勾玉の女神
橋姫と瀬織津比咩
平将門と瀬織津比咩
狼と瀬織津比咩
鈴鹿権現と瀬織津比咩
母子信仰と速佐須良比賣
七夕と白鳥
来内の違和感
瀬織津比咩(イタリア便り)
水神と日の御子
年越しの祓の女神
「七瀬と八瀬」
鉄の蛇
荒御魂
閉伊氏の正体
早瀬川と白幡神社
瀬織津比咩雑記
岩手県の瀬織津比咩
古典の世界
「宮木が塚」
「蛇性の淫」
「白峰」
「吉備津の釜」
「菊花の約」
「青頭巾」
「浅茅が宿」
「徒然草」
「源氏物語」
「枕草子」
わたしの怪奇体験談
よもつ文
遠野の自然(春)
遠野の自然(夏)
遠野の自然(秋)
遠野の自然(冬)
遠野の夜空
以前の記事
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
お気に入りブログ
パチンコ屋の倒産を応援す...
ゲ ジ デ ジ 通 信
宮  古  物  語
民宿御伽屋
不思議空間「遠野」別館
ひもろぎ逍遥
jun-roadster
リティママ の日々徒然
世に倦む日日
JUNJUNのブログへよ...
外部リンク
最新のコメント
ミシャグジの「ミ」は「御..
by dostoev at 20:09
瀬織津姫とミシャグジは対..
by ななし at 11:54
「雨乞い観音」のモチーフ..
by dostoev at 08:42
正法寺七不思議のひとつに..
by 鬼喜來のさっと at 23:55
下野小山氏は奥州菊田荘を..
by 鬼喜來のさっと at 22:24
遠野市小友町の藤沢の滝の..
by dostoev at 19:50
人の首と書いて人首とは何..
by 鬼喜來のさっと at 22:11
ishiwaさん、良かっ..
by dostoev at 19:08
dostoevさん、こん..
by ishiwa at 18:05
さっと氏、情報ありがとう..
by dostoev at 17:42
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


「遠野物語58(河童駒引き考)」

f0075075_12371488.jpg

【写真は、土淵の姥子淵】

小烏瀬川の姥子淵の辺りに、新屋の家と云ふ家あり。ある日淵へ馬を
冷やしに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、河童出でゝ其馬を
引き込まんとし、却りて馬に引きずられて厩の前に来り、馬槽に覆はれ
てありき。

家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手出てた
り。村中の者集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中
の馬に悪戯をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其河童今は村
を去りて相沢の滝の淵に住めりと云ふ。                               
                       「遠野物語58」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
所謂「河童駒引き」の話となるが、殆どの場合、河童は馬を川に引き込もうとするが、失敗に終っている。馬は数頭失っただけで、その家は没落すると云われるほど貴重なものだった。狼に馬を食い殺され没落した家の話が「遠野物語」にも載っている。ただ馬がもしも河童に引き込まれたとしても、大丈夫では無かったのか?本来、馬は水神との繋がりが深い生き物で、タテガミ繋がりから今でも馬の最高位には龍が君臨する。つまり馬と龍とは同属なのであるという考えが伝わっている。

「平家物語」で有名な名馬”いけづき”は、宇治川を渡って主君に名をなさしめた存在でもあった。また江戸時代には、将軍の御前で、完全武装した騎馬武者が大川を渡った事が度々あったという。馬そのものも水神との繋がりもあり、水を怖がる馬の存在とは、あまり聞いた事が無い。もしも河童に誤って川に引き込まれたとしても、馬は自ら這い上がってきたものと思うのだが…。

河童駒引きの話は、里に流れる馬洗い場に、その話の多くが語られる。実はその馬洗い場と呼ばれるものは、本来雨乞いの祈願場所であったのが、いつしか馬の安全祈願の場所に変わったのでは?という説がある。馬を洗うというのは普通であり、人間にとっては勤労の友でもあるのが馬で、野良仕事が終った後、体を洗ってあげ、その後に厩舎休ませるのが日常であった。坂東武者は、陸奥制服の戦場に大釜を携え、連日湯を沸かして愛馬を洗っていたという伝承があるように、馬を洗う行為は、馬との結びつきの深さを示すものだった。

また雨乞いの多くは、山の頂で千駄木を焚くか、山に流れる滝壺に馬などの死体などを捨てて、その水を穢すなどという方法がある。奈良県の吉野には、丹生川上神社という古くから伝わる神社がある。祭神は罔象女神。、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナの尿から、
生まれたとされる女神だ。

天武天皇の時代から信望され続けられてきた、この丹生川上神社の歴史は1300年にもなる。この神社は、雨乞い神事の為だけの神社みたいなものだ。雨が降り過ぎ、雨を止ませようとする時は白い馬を。雨が必要とされる時は、黒い馬をこの神社に奉納した。その奉納された馬達は、丹生川の馬背という場所で洗い清められて、その後”馬谷”という地へと放たれていたというのだが、この馬の奉納神事は応仁の乱の頃に途絶えたのだというが、この雨乞いの概念は、広く全国にも伝わったようである。

この生き馬の奉納は後に、絵馬となったり藁の馬となったり形を変えていき、それが現代にも息づいている。奈良時代から平安時代の遺跡には、馬を象った小さなものが様々発掘されている。それがどうも、水周りに多く発掘されるという事から、積もり積もった罪や穢れを川の流れに乗せて祓ってしまおうという祭りの為の小道具に使われたのでは?という説がある。つまり馬という存在は、人を乗せるだけでなく、また畑を耕すだけでなく、穢れなどの持ち去って欲しいモノを負わせる乗り物であったという事だ。つまり馬という存在は、人間社会においてとても重要な存在であったという事だ。

同じ水神系の繋がりで考えても、河童と馬とでは比較にならないほど、馬の存在は大きくて重い。普通に考えても、河童が川に引きずり込もうなどとは出来ない存在が馬だった。だから河童は、逆に川から引き出されてしまった。ならば「河童駒引き考」と云われる考え方とは別に、河童は陸に引き出して欲しかったとの考えもまたできるのかもしれない。何故なら、河童という存在は、ある意味人間の穢れの塊ともとれるからだ。

遠野の河童は、赤いと云われる。その赤とは間引きされ、川に流された子供の魂が具現化したものとも云われる。どんな理由であれ、命をあるものを川に流して殺してしまうというのは、捨てる側、捨てられる側、互いの穢れである。

「遠野物語56」では、河童の子を産んで忌子として捨てられた話が紹介されている。しかし捨てた者は、もしや見世物にすればお金になると思い、その場所に戻ったがすでにいなかった。これはつまり、穢れによって生まれた忌子が捨てられた瞬間、既に人間の子供からの零落を示すものなのかもしれない。

歴史上、御霊信仰…つまり、殺した相手の祟りに、多くの天皇達は苦しんできた。その為、傍には陰陽師などを置き、呪い返しなどを行ってきたのだが、その人を殺したという苦しみからは逃れる事は出来なかったのだという。河童の正体が、もしも捨てられた子供達の霊の具現化だとしたら、常に捨てた親達は、どんな子供達であろうと、心の奥で苦しんできたのだと思う。犬や猫を飼えないからと、川に流してきた人々も、やはり同じものが心の奥に引っかかっているものだ。川に流すのも、そこには水神が鎮座し、人々の穢れをまとめて祓い流す場所でもある為、間引きの子供であろうと、犬・猫の類であろうと流してきたのは、その川に対する浄化を信じてきた為なのだろう。

その忌み嫌われ穢れた河童は、川に棲み付いたものの、大抵の場合は淵と呼ばれる場所に棲みついている。水の流れが穢れを流し去るのであるが、淵とはつまり淀みだ。淀みには、モノが溜まる。流し雛であろうと、灯篭流しであろうと、とにかく途中引っかからないように流すのが原則となるのは、留まるものは浄化されないもの。つまり、魂であれば、成仏できないモノとなる。

土淵の常堅寺の裏手には、河童淵であると宣伝され、今でも多くの観光客で賑わっている。今では浅い小川であるが、昔はもっと水量もあり深かったという。そしてその河童淵と呼ばれたのは、やはり淀みであったからのようだ。間引きにより流された赤子が、その常堅寺の裏手に流れ着き溜まる。それを住職が供養したのだという話を聞いた事がある。つまり、流されたものは水の流れの浄化により供養されるのであるが、淵などの淀みに引っかかり流れずにいた赤子は、穢れたままであり、成仏できぬ存在として認識されたのかもしれない。つまり河童とは、穢れが溜まる淀みという負の水神として祀られた。当然、柳田國男の考えでいえば、神が零落した存在が妖怪であるので、河童は水神でありつつも、零落した存在である為に、あくまで神ではなく妖怪として語られる事となった。

しかしそこには、浄化したい、成仏したいという正の意識が常に河童の自己意識に存在したのかもしれない。いや正確には、川に流され成仏できなかった赤子などが、河童に零落し伝えられてしまった為、正の水神である馬の力により、負のエネルギーが溜まる淵から引きずり出して成仏させてあげたいという気持ちが、河童が馬によって引きずり出された話が全国に広がったのかもしれない。つまり「河童駒引き考」とは本来、河童が馬を川に引き込むものとして考えられていたが、実は馬が河童を淵から引きずり出す為に作られた話では無かったのだろうか?
by dostoev | 2010-12-09 12:43 | 「遠野物語考」50話~ | Comments(24)
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-04 14:03 x
昨年末、祖母が亡くなったので、今年は正月が出来ないのですが、本年もどうぞ宜しくお願い致します。
さて、遠野の河童が赤いことについて、陰陽五行説に基づけば十二支の寅は、三合会局の理に基づけば火気の始まりですから、河童は火の属性をもつこととなり、遠野の河童は赤いと言っているのですから、基本は火気に属するものと考えて良い気がします。雨乞いの際に滝壺に馬の死体を投げ込むという習俗は、スサノオがアマテラスらが機織りの最中に馬の生皮を投げ込んだことにより、世界が闇に包まれるきっかけとなった事件と決して無関係ではないでしょうね。同様の雨乞い習俗に猫を沼や淵に投げ込むというのがあり、これは宮城県大崎市などに伝わっているのですが、タイでもやはり雨乞いの儀式の際に神輿に入れた猫に水をかけるというのがあり、現在は動物虐待に当たるというので、生身の猫から青狸、もとい「ドラえもん」のぬいぐるみに変わったという話が昨年ネットニュースなどで取り上げられていましたが、これもやはり馬同様、陰陽五行説に基づく強すぎる火気の剋殺と考えられますが、猫の代わりに青いドラえもんに水をかけることから、水生木で作物の生育を促す呪術であるともとれるんですよね。やはり水分神である丹生川上神社や貴船神社に朝廷より降雨祈願の為、奉納された黒馬というのも同様で、黒馬とは「青馬/あおうま/あおごま」と呼び、濃い青みを帯びた黒馬。青毛の馬を指すことから、火の旺気や水気であると同時に、寅と同じ木気の象徴なんですよね。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-04 15:06 x
馬(午)は火の旺気ですから、陽気が強く、特に夏場は水で冷やさなけれはならないのでしょうが、木気であり火気の始まりでもある河童(水虎)が水辺で馬にちょっかい掛けるのは、五行説の観点から見ても、水中に引きずり込み尻児玉を抜くのが目的ではないような気がしてくるんですよね。実際、各地に伝わる河童駒引の話では『遠野物語』同様、逆に馬に引きずられて失敗しているのがそれをよく表している気がします。要は河童と馬は相剋ではなく、比和相生の関係にあり、元々仲良しと考えるのが自然の理なんですね。つまり水辺で河童が馬にちょっかい掛けるのは、水剋火で火の旺気である馬の体を冷やしたくないという意図が見えてくるんですよ。虎が風を司るならば、木気の寅(猫)の仲間である河童もまた、火力を上げる風神であるんですね。
これを裏付けるかのように、「竜宮の馬」という、黄金を産む宝の馬を竜宮からもらう昔話があり、岩手県に伝わった河童の話にも、黄金を積む馬を助けてもらった御礼に授ける話がある。「竜宮の馬」の類話には犬、猫のバージョンもあって、五行説においてはいずれも三合会局の火気に属する動物なんですね。やはり同様の話は竈神(火男/ひょっとこ)の由来ともされていますが、現存する竈神の面の最も古いものは能楽の黒式尉の面であり、「ひょっとこ」も元々は黒式尉の古い形である「うそぶき」と呼ばれる狂言面で「汐吹」ともいい、「海の水はなぜ塩辛いか」という、竜宮からもらった黄金と塩を出す石臼の話につながってくるんですね。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-04 15:53 x
では、『遠野物語』にある河童の子とはなにかということなんですが、河童は木気であり、火気の始まりですから、母体である土気を剋する存在であるんですね。河童が女性を強姦する春画がいくつかありますが、そもそも河童には雄しかおらず雌がいないから、子孫を残すために人間の女を犯すんだそうですから、ここでも水辺の妖怪であるはずの河童が、本来陽気に属する存在であると考えられていたことが窺えます。
遠野の河童は赤いんですから火気と考えれば、イザナミが産んだ火の神カグツチにより、ホトを火傷しその傷がもとで死んだため、怒ったイザナギによって殺された話に似ていることに気づかされるんですよね。よく似た話に関東や信州に伝わった血塊(ケッカイ)という妖怪があり、この妖怪を産んだ時はすぐに殺さないと縁の下に逃げ込まれ、自在鉤を伝って災いを成すとされることから、その俗信の中に火気に対する恐れがあることが解るんですよね。また河童は水虎ですから、水子(みずこ)、即ち水死(すいし)、水使(すいし)であり、不具のため、イザナミから生まれてすぐにうつろ船に入れ流し捨てられた蛭子(恵比須)であることがわかる。風を司り鼠を捕える猫(子虎)を航海神や豊漁神として信仰し、その一方で水死者の怨霊である船幽霊と猫を同一視する地域があるのも、ここにつながっているんだと思うんですよね。
Commented by dostoev at 2017-01-04 16:19
さっと氏、今年もよろしくお願いします。ところで素戔男尊の行為は、その場を穢す行為。滝壷などを穢すのは、水神を怒らせて雨を降らせる事によって、その場を水の力で清めさせようとする意図的な手段として用いられてきました。天照大神がその場を穢された事によって天岩戸に引き籠ったのは、流れ的に何かが省かれて構成された話ではないかとの見解もあります。遠野の河童が赤いと云われる所以は、赤子の赤に通じるともされます。赤は確かに火を意味しますが、この場合は生まれて間もない赤味を帯びた赤子そのものを意図してのものでしょう。ところでサンデーサイレンス系などの青鹿毛を観てきましたが、青と認識できる色ではありません。青毛、青鹿毛も基本的には、黒色という認識が一般的です。源義経の愛馬、もしくは源頼朝の愛馬伝承にも、小黒などという黒馬というのは登場しますが、青馬という表現の馬は登場しません。靑も以前は黒と同じとされましたが、漢字の「青」は本来井戸を含む「靑」からの発生でした。古代においてはまだ靑を馬に結び付けては無かったと思われます。丹生川上神社に捧げた黒馬は、雨雲である黒雲を意図してのもの。その逆として、晴れを期待した時に白馬を捧げました。
Commented by dostoev at 2017-01-04 16:34
また、記事にも書きましたが、河童&猿は馬との相性が良く、行動も似通っている事から、河童と猿は似た者同士。というよりも、猿が河童という別の存在に分けられた可能性があります。猿に人身御供として村娘を提供したという実際の地域もあるようですから、猿も河童も変わらなかった。古代においての女人禁制の山は、女性を守る為でもあったそうです。人間の女性は、人と交われば人の子を産みますが、蛇と交われば蛇の子を、猿と交われば猿の子を産むと信じられていました。だからそういう魔物の棲む山への入山を禁止したとも云われます。当然そういう考えは、水界にも及んだのでしょう。
Commented by dostoev at 2017-01-04 16:54
軻遇突智の首を切ったくだりは、一般的には蹈鞴の過程を、神々の誕生で表現したものとされています。鶴女房なども、その原型は「古事記」から来ているのは、「古事記」が日本最古の書物になるので仕方のない事です。ただし、その原型から複雑怪奇に枝葉が広がり、元を辿れば確かに「古事記」に行き着く場合が多々あります。しかし途中から、外来の要因も含まれ、特に中世は一筋縄ではいきません。水子の語源は、確かに「古事記」の水蛭子からきています。ただし、それに水虎などを交えたのは、後世の所為でしょう。竜宮思想は、海においても山においてもあります。その竜宮の本来は、黄泉国であり、常世国ですから。死と生の連続する境界は、山の穴であり、海の彼方にあると信じられました。
Commented by dostoev at 2017-01-04 17:27
結局、ネコとは何なのか?ネコの語源が、いつも寝てばかりいるから寝子であるという説。または鳥を獲るのがトコ。蛇を獲るのがヘコ。ネズミを獲るのがネコだとも。ネコのネは根であるとして、鼠と同じ地下の住人であり、鉱物を意味する根であると。しかし猫が輸入されて、初めて猫を飼った宇多天皇の手記を読む限り、鉱物に当て嵌めて考えられたのは後世になるでしょう。また猫の俗信も当然、宇多天皇以降、猫の繁殖によって庶民の手に猫が広がってからのものでしょうし、「徒然草」に化け猫譚(実は飼犬)の話が載っている事から、平安末期には猫は庶民の間に広まっていたのでしょう。文化の伝播には、地方に行き着くまで最低50年とも云われます。お伊勢参りが普及した江戸時代であれば、もう少し早いとは思われますが、平安時代に猫そのものと、猫のの伝承が東北まで伝わったとなれば、やはり奥州征伐以降となると思われます。奥州藤原氏が猫を飼っていたという話を聞いた事が無いので、猫の話は鎌倉時代以降になるのでしょうね。
Commented by dostoev at 2017-01-04 17:36
ただ「新撰字鏡」(898~901)には猫を評して「虎に似て小也」とありますから、この時代には猫=虎の様と思われていたようです。ただ別に、この時代は猫を狸という漢字で表していました。となれば、狸の登場する昔話が、実はその正体が猫であった可能性もあるわけです。絵巻以外は、書物による記録しかないわけですから、狸を猫では無く、本来の狸として話が作られた可能性があります。かちかち山や、ぶんぷく茶釜も、もしかして猫が主人公であったのかも。
Commented by dostoev at 2017-01-04 17:59
南宋の頃の書に「猫は虎の舅」だと記されているようですが、この場合の舅とは、叔父を意味しているそうです。また清の時代になると、猫は虎の師匠であるとされている事から、猫が虎と同等、もしくは上の存在とされたのは17世紀になってからだと思われます。つまり、日本に伝わるのはそれ以降である事から、猫=虎だと考えられたのは江戸時代になってからだと思われます。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-04 20:05 x
先日、NHKで復元の特集番組が組まれていましたが、奈良の春日大社に伝わった平安時代に造られた国宝・金地螺鈿毛抜太刀の鞘には竹林の中で雀を狙う数匹の斑猫が螺鈿細工で描かれているんですね。やはり春日大社に伝わる、記念切手の図案にもなっている事で知られる鎌倉末から南北朝期にかけて制作されたと考えられている国宝・赤糸縅大鎧は通称「竹虎雀飾」と呼ばれ、竹に雀と虎が大金物で表されているのが特徴なんですね。ここから考えると少なくとも平安末から鎌倉期までには、猫と虎が同一視されていた可能性がでて来るんですよ。また、春日大社といえば「ひょうすべ」の発祥伝説に関わる神社ですから、元々猫を結びつける何かがあるんだと思います。
陸前高田市広田町の遺跡からは大正時代の発掘調査の際に、縄文時代に装飾品として加工された山猫の牙が見つかっていますし、ネコの骨自体は各地の縄文遺跡で発掘されていますから、オオカミ同様、何らかのネコに関する信仰自体が日本にも古くからあった可能性があると考えられているんですよね。
Commented by dostoev at 2017-01-04 21:17
春日大社は「河童と瀬織津比咩」でも紹介したように、河童伝承が伝わっています。「佐太大社縁起」によれば「月神とは大和国に在りては春日大明神と号し、尾張国に在りては熱田大明神と号す。安芸国に在りては厳島大明神と号す。」とあり、これらは全て一柱の共通の女神を意図されています。それが早池峯の女神となる事から、春日大社もいずれ書く事にしていました。ところでネコ科の動物として、虎と猫がいますが、平安時代にはネコ科という概念というか分類方法は存在しません。恐らく似ているという感覚はあったと思われます。何故なら中国でも、虎と猫とは同じであるとは認識されていませんから。「猫」という漢字が認識し始めたのは、中国の北宋時代からで、鼠が苗を害するが、その鼠を狸が捕え、苗の害を除去するので、それから獣偏の苗で「猫」という表記が登場したようです。それでもまで"猫"という漢字は普及していなかったようです。それから猫の存在と観察がなされ、意外にずる賢いなどと思われて行き、いつしか虎に近いものとされ、更には虎の師匠であると、猫は虎の同格、もしくは格上の存在になったようです。平安時代の国宝は虎との"対比"である、遊び心ではないでしょうか。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-15 17:18 x
『遠野物語』27話の池之端の引臼に関する考察を見つけれなかったのでここにコメントさせてもらいますが、自分、今の今まで全然気づかなかったんですが、この池之端の引き臼の話、腹帯の淵の主から大坂鴻池の池に手紙を持っていくよう頼まれた話のバージョンがあったのですね。自分は竜宮猫と竈神のアプローチから、この話が鴻池や稲子澤につながるなと系譜を辿っていたので、「大阪鴻池」の記述を見つけた時、唖然としてしまいました。
前に書きましたが、竜宮からもらったお宝は、玉手箱や釣鐘、宝珠などの他に、黄金を産む猫、犬、馬のバージョンがあり、これらはいずれも火気の三合に属する動物なんですね。やはり黄金を産む宝物に、竈神の由来とされる火男と引き臼があり、引き臼に関してはおそらくは引き(火気)臼で、産金に関係する金鉱石を砕く石臼の連想があったはずですが、逆に回すと塩が噴き出すバージョンがあるところから考えると、塩が白い事から火剋金か、製塩の際に用いる塩臼とも考えられますよね。ひょっとこ(火男)の原型は狂言などに用いられる「汐吹き」の面で、それ以前が、猿に例えられる三番叟が被る黒式尉の古型である「しはぶき」であり、三合会局で水気の始まりに属する、金気の猿が竈神に関係していることが解るんですが、猿に例えられる黒式尉は、朝鮮などの古面をたどるとどうも、元々は白式尉(翁)と対になった女面、姥面臭く、九州地方の神社に御神体として伝わる、火の王(赤)と水の王(青)と風の王(緑)が関係するのではないかと考えているんですよね。遠野の池之端家は塩屋を営んでいたようですし、水沢の鹽竈神社の塩窯には稲子澤の文字が書かれていたともありますから、鹽竈神社講との関係でしょうか。稲子澤家が何で富を得たのかはわからないんですが、火車伝説の残る越喜来の松崎家など、三陸沿岸の猫に関係する伝説地には塩田跡が多く、猫返しの呪歌「立ち別れ」の歌を詠んだ在原業平も趣味で塩田を営んでいることからも無関係とは思えないんですよね。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-16 03:00 x
腹帯大淵じゃなくて、物見山の沼の主から大阪鴻池へ遣わされたでしたね。こちらのバージョン、書き換え型ではなくなっていますが、この池之端の挽臼の話の出典元が気になります。
Commented by dostoev at 2017-01-16 13:32
池端家の先代の話によれば、阿曾沼が追われた時、気仙方面から阿曽沼家に嫁いだ姫がいたそうです。それがドタバタの最中に、従者を引き連れて伊達藩であった気仙方面に逃げたと伝わっているそう。通常の峠や街道は押さえられているので、時間がかかろうと難所の物見山越えを果たしたのだと。その時に、金目の物を持ち運んだろうが、途中捨の池に捨ててしまったとされます。大正以前の物見山には三つの池があったといいます。昭和40年代には、一つの池だけがあり、今ではまったく無くなりました。この池のあった場所は小豆平と呼ばれ、小豆を付けた得体の知れない化物がいるとされていたのも、もしかして人の立ち入りを恐れていた為の作り話では無かったかとされます。阿曽沼の失脚は突発的なものではなく、気仙から嫁いだ姫と、その従者は逃げる準備をしていたとも。物見山からは以前、高田松原が見えていたように、ある意味気仙との境界でもありました。そこに財宝を隠し、後でゆっくり取りに行く事も出来たと思われます。その財を池端が得たのでは?との話もあります。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-16 15:03 x
吉田政吉著『新遠野物語』の「遠野騒動の巻」にも記されている話ですね。吉田氏の著書は明らかな誤伝や異説も多く、史実とすり合わせるのが大変なんですが、『阿曾沼興廃記』に見える広長の義父、気仙郡住田町の世田米城主世田米修理は、戦時金属供出で失われた梵鐘銘に「阿曾沼中書広久」とあり、この人物は元和元年に世田米館と地続きに新城院という寺院を建立していることから、遠野阿曾沼氏とは同族であり、世田米修理と同一人物ではないかと言われています。この広長の夫人の消息もよく分かっておらず、上野右近が殺そうとしたのを西風館大学が助けたとも、逃げる途中、五輪峠の付近で殺されたともあり、諸説紛々なんですね。『阿曾沼興廃記』によれば、この騒動の際、世田米から嫁添え付き人として来ていた熊谷安左衛門(※松田太郎左衛門とあるのは誤り、大崎葛西一揆との混同の可能性大)という武士が反抗撲殺されていますが、熊谷氏は宝鏡寺を再興した気仙沼の土豪であること、同時期に遠野小友村に、のちに気仙沼の領主となる鮎貝志摩が駐留していることも留意されるような気がします。
気になるのは同じような埋蔵金を発掘して長者になった話が、気仙稲子澤長者にも伝わっていることであり、「池の端の挽き臼」の別伝で、物見山の沼の主が大阪鴻池から嫁いできたと言っているのは、伝説を伝えるうえでの何か宗教的な接点があったから、猫多羅天女につながって来ると思うんですよ。鴻池家の由来となった兵庫県の鴻池の地図を見ているとすぐ近くに天王寺という地名があり、由来はまだ調べていませんが素戔嗚を祀る神社もあるんで、ここが突破口になるやうな気もしますが…。
Commented by dostoev at 2017-01-16 15:55
あくまでも池端家先代の話ですから、正確なところはわからないでしょう。伝承というものは、そういうものです。そもそも遠野の歴史は無いに等しいとされているのは、南部が捏造した歴史が大きくものを言っているようです。それ故、自由な発想は悪くないと思いますが、あくまでも枠内にとどめて置いた方が無難でしょう。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-16 16:52 x
この石臼は、池端の先祖が孫四郎と名乗っていることから孫四郎臼と呼ばれたそうですが、気仙に亡命した阿曾沼広長の名も孫三郎、その父の広郷は孫次郎ですし、阿曾沼氏は竜宮と関係の深い家柄ですから、埋蔵金伝説もしかしたらこの池端という家は阿曾沼の末裔だから故なのかなという気もするんですよね。ところがこれに大阪鴻池が関わってくるとなると、その背後に何らかの宗教集団がいたはずなんですが、山中鹿介の後裔とされる鴻池家は元々清酒の販売で財を成したそうなんですが、酒(ささ)といえば近江佐々木氏や宇賀神(宇賀弁才天)との関係性が見えてくるんですよね。また、妙多羅天女の話に登場する鴻池善右衛門は、大阪府高槻市市原の天台宗神峯山寺に祀られる毘沙門天を信仰していたみたいですが、北方を守護する毘沙門天の使いは百足と虎ですし、その妃とされる吉祥天は、弁才天や瀬織津姫、妙見菩薩とも同体とされますからそちらでしょうかね。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-16 17:16 x
『今昔物語』に「今は昔、越前の国に生江世経(いくえのよつね)という貧乏役人がいた。生江世経は若い頃、食べる物にも事欠く有様だったが、吉祥天像に「天女さま、どうかお助けください」と祈願した。しばらくして美しい女性が尋ねてきて、「米三斗」と書いてある文書を持ってきた。美しい女性の言葉に従い北の高い峰に昇り、角が一本生えた恐ろしい鬼から、取れども尽きぬ米袋をもらった。この米袋は一斗を取って使うと、また米が出てきて尽きることがなかったので、いやというほどの資産家になった」とよく似た話があるので、可能性は高いんですが、吉祥天といえば、光明皇后をモデルにしたともいわれ癩病患者の膿を吸った伝説が有名ですから、小豆平の化け物もここに関係するのかもしれません。
Commented by dostoev at 2017-01-16 18:09
佐々木と宇賀神の関係は酒では無く、あくまで十禅師、つまり比叡山の東麓の日吉神社との関係からでしょう。確かに「白蛇示現三日成就経」では、宇賀神法によって福徳長者の果報を得たとの記述がありますから、宇賀神の信仰によって長者となる話はあるでしょうが、ここで池端と結び付けるのは危険だと思います。また、瀬織津比咩が吉祥天と妙見菩薩と"同体"と考えるのも危険です。これは地域性の問題や、時代の推移も加味されますので、正確にはケースバイケースで習合されたと考えるべきです。
Commented by dostoev at 2017-01-16 18:18
小豆平の化物は、あくまでも恐ろしいモノがいるされているだけで、多方面に広がるマヨヒガのような福徳譚と結び付く話を聞いた事がありません。それ故に、何故そういう化物話が出たのかとは考えますが、強引に福徳の話と結び付けるのも、やはり危険だと思われます。小豆平の化物と、池端の人間に手紙を与えた水妖を簡単に結び付けない方がよろしいかと思います。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-16 18:56 x
地図を確認すると遠野町の池端精米店(石臼明神)の南側に宇迦神社があるようなので、もしかしたらここと関係かあるのかもしれませんが、神社の資料の確認ができないので妙見云々は一旦保留しておいて、孫四郎が通ったという遠野郷と気仙郡の境にある物見山(種山)に目を向けると、池端精米店を結ぶ反対方向にかつて天台宗に属したという、松崎町駒木の西教寺(大慈寺跡)がありますね。問題なのは池ノ端と物見山を結んだ反対方向。その先には大同年間に坂上田村麻呂の陣所となり、仙台藩の支藩である一ノ関藩田村氏の居城となった一関城、遠野騒動当時伊達政宗の居城であった岩出山城、そして天正十八年の奥州仕置以前は伊達政宗の居城であり、関ヶ原合戦当時は上杉景勝の居城であった会津黒川城(会津若松城)が一直線上に位置するのは呪術的に偶然ではないでしょうから、孫四郎は確かに伝承通りに阿曾沼というか、広長の後ろ盾となった伊達政宗の軍用金に近い何かを見つけたような気がしますね。
Commented by dostoev at 2017-01-17 11:20
現在の遠野の街が川原であった頃、この宇迦神社の対岸にあったのが、白幡神社でした。距離でいえば100mもないでしょう。その頃にはまだ池端家は無かった筈です。現在の遠野の街が出来たのが17世紀後半。街には川が流れており、まず宇迦神社と白幡神社があったようです。宇迦神社の祭神は虚空菩薩であり、鰻を食べる事が禁忌となっているのは妙見に繋がる信仰です。宇迦は梵語で"白蛇"を意味しますが、九州の妙見が白蛇であり水神を祀っている事から、九州地域の影響を受けているのかもしれません。とにかく池端家が建つのは、横田城の移転以降の事となるようです。
Commented by 鬼喜來のさっと at 2017-01-21 23:36 x
ごめんなさい。地図で位置を確認し直したところ、会津黒川城ではなく、政宗の生まれた米沢城の様ですね、訂正します。天正十九年の奥州再仕置後、米沢城に代わり、政宗の居城となった岩手沢城を政宗は岩出山城と名を改めましたが、この岩手沢城は一揆鎮圧のため、秀吉の命で仕置軍として奥羽に進駐した徳川家康が本陣としたところであり、遠野阿曾沼氏の本城である鍋倉山の横田城も当然のごとくこのライン上に位置するので、取り潰しを免れた阿曾沼家といい、大河兼任とほぼ同じ場所で斬首された九戸政実といい、何か豊臣政権の思惑が働いているんだろうと推理しています。もっともこの奥州再仕置後、豊臣氏は変化・相続の卦にあたる艮、東北方位をいじった祟りであるかのように、跡継ぎの豊臣鶴松(捨丸)が急死し、まさに滅亡への道をたどるんですが、この後、秀次事件に連座し秀頼を呪詛しようとしたとの理由により秀吉により禁止された陰陽道を再び復活させたのが徳川幕府でした。そしてこのライン上に位置する池端家からの鬼門方位を確認すると、坤の南西ラインはぼほ正確に大阪に行き着くようなので、物見山の沼の主が大坂鴻池より嫁入りしたと言っているのは、ここに因果関係があるみたいです。また、池端家と水沢正法寺を結ぶと平安京大内裏(※豊臣政権時は聚楽第)の鬼門の果てである田老真崎の三王岩に行き着くようですから、前に述べた汐吹臼と火男(猿)の関係にもつながりますね。となると水の神の文使い伝説を介在したのは猫と同じく曹洞宗一派であった可能性も出て来ます。
Commented by dostoev at 2017-01-22 09:14
申し訳ない、もう付いて行くのは無理みたいですm(_ _)m
<< 「遠野物語59(胡桃の木)」 「遠野物語55&56(河童の子)」 >>