綾織村字新崎の西門舘という小さな丘の上に、一本の老松があって
その根もとに八幡様だという祠がある。御神体は四寸まわり位の懸仏
であるが、御姿が耶蘇の母マリヤであるという説もある。この神像は昔
から、よく遊びあるくので有名である。
「遠野物語拾遺50」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺50」に記述されている老松は、現在の西門舘の八幡宮には、すでに枯れてしまったのだろうか、その姿は無かった。
この西門舘は、鵢崎右京の舘であったという事だが、右京夫人は宇夫方守儀の娘であったので宝徳年間(1449~1451)頃からの話なのかもしれない。地元の古老の話では「矢走り」と云われる地でもあり、向側の遠く、西風舘から矢が射られ飛んできたのか、この西門舘から矢を射ったのか定かではないが、そう呼ばれているとの話を聞いた。
鵢崎右京の屋敷があったとも伝えられる地ではあるが、鏑木山には沢が無く、砂子沢から水路を設けて引き、今でも溝の跡はあるというのだが、今回はそこまでは確認していない。そして屋敷というより、見張り台として、この西門舘の地は機能していたようだ。確かに見晴らしはよく、綾織から遠野までの流れが把握できる場所でもある。
また「遠野物語拾遺50」の冒頭に「新崎」と記述されているが、これは地名では無く、この地域に小学校を建設する時、旧村の新里と鵢崎を結び付けた名前であり、俗称みたいなものなそうだ。
さて「遠野物語拾遺50」にいてマリア像では?と云われる御神体を見せて貰ったが、確かに懸仏ではあるが、二神像の懸仏であった。この鉄製の懸仏は江戸時代の作とされているようで、その頃から伝わるものだとすると当然「遠野物語拾遺」の時代とも重なるのだろう。しかしどう見ても、この懸仏がマリア像に見える筈も無く、となれば創作された物語なのかもしれない…。
しかし、よくよく「遠野物語拾遺50」を読むと「この神像は昔から、よく遊びあるくので有名である。」と記述されている。これは憶測であるが、もしかして御神体と呼ばれるものは二つあったのではなかろうか?つまり表面的には神像の懸仏であり、裏では隠れキリシタンを意味するマリア像の懸仏があったのだと思ってしまう。
地元の古老に聞くと、綾織には隠れキリシタンはいなかったと思うと言うのだが、この鵢崎地区にある長松寺には、周辺からいつの間にか預けられている子供を抱いた観音像が安置されている。住職の話では、子育て観音であろうという事だが、密かにキリスト教を信仰し続けた人々が擬似マリア像を、子育て観音と偽り命がけで守ってきた歴史的背景もあるので、子育て観音とマリア像の結びつきはかなり深い。簡単に切り離して考えるわけにも、いかないものである。
この西門舘の八幡宮も、本来は舘として発祥したのかもしれないが、いつしか隠れキリシタンに祈りを捧げる、それこそ隠れ場所としての可能性があったのでは無かろうか?そうでなければ、戦神の象徴のような二神像が浮き上がる懸仏をマリア像という説もあるなどと、伝わる筈も無い。つまり「よく遊びあるくので有名」という表現は、隠れキリシタン信者の間で隠され保護されてきたという暗喩では無かったのか?と考える。