小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶとも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のことなり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。
「遠野物語103」戒めの言葉の通常は「モウコが来る」という言葉だった。このモウコは、狼を表す。しかし昔、冬場の狼は比較的雪の少ない沿岸部へ異動し、鹿を襲っていたようで、遠野においての冬場には、代りに「雪女が来る」と言っていたのかもしれない。また15日に限りと限定されているのは、15日の小正月にはいろいろ行事があり、早くに家族が集まる必要性があった為の限定戒めだったのかも。
ところで雪女は美人という定説があるが、これは色白=美人という定義に則ってのものであろうが、童子をあまた連れてくるというのは、もしかしてそれは木の精なのかもしれない。
雪の降る日に、村のみんなでチョウナを持って千丁木を切りに行った。次の日いってみると、むいて積んであった木の皮が元通りになっている。そんなことが何日も続いたので村の長老が泊り込んで様子を見ると、夜中の12時過ぎに、木の精が枝にたくさん群がって、皮を燃やされたら困るとか、コッパを燃やされなければいいな、などといっていた。それを聞いた長老は、次の日には皮をはぎ、コッパを燃やした。晩になって帰り、千丁木のほうを見たら、木の精がクリスマスツリーのように群がっていた。
「山梨の伝説」上記の話は、山梨に伝わる話であるが、木の精のあまた群がる様子が描写されている。元々雪女は、山ノ神とも重複して伝わるものであるから、山の神の使いとして、山に生えている木の精が童子の姿であらわれているのかもしれない。西洋になれば、小人が精霊の姿として現れ、精霊のような小さな者達を現す場合の大抵は小人であり、日本国内になれば童子となる。
また、山は雪に覆われ閉ざされた世界となり、雪が無い自分は人々は山を往来し、山での怪異に遭遇するのだが、冬場に山へ行く者達は、殆どいない。その代わりに山の霊達が里に降りて来るのだろう。
山ノ神は春になると、里に降りて、田の神と変化する。精霊なるものは縦横無尽に、山と里を往来しているのだ。季節の変わり目に現れる精霊であるから、別に歳神とも呼ばれ、季節感を表す為の存在ともなっているのだろう。