栗橋村アカスパの某という狩人、先年白望山で雨に降り込めらて、
霧の為に山を出ることが出来なかった。
木の根に靠れて一夜を明したが、夜が明けて雨が晴れたので、そこ
を歩き出すと、ひどく深い谷へ落ちた。その時に向うから髪をおどろに
振り乱した女がやって来るのに逢った。
著物は完くちぎれ裂け、素足であったが、たしかに人間であった。鉄砲
をさし向けると、ただ笑うばかりである。幾度も打とう打とうと覘いながら
打ちかねているうちに、女は飛ぶ様に駆け出して、谷の奥へ入って見え
なくなった。
後に聞いた話では、これは小国村の狂女で、四、五年前家出をして行方
不明になった女だったろうとのことである。それでは白望にいたのかと人々
は話し合っていたが、はたしてその狂女であったかどうかは解らない。
「遠野物語拾遺111」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺111」において狂女の話が紹介されているが、それが確かに小国の狂女なのかは定かでは無い…。
白望山周辺にはタタラがあり、そこで生活している男達がいたようだ。山の中に棲む者達であるから、ストレスも溜まったのだと思う。当然男であるから、女を欲したのかもしれない。「遠野物語」には、山男にさらわれた女の話がいくつかあるが、これをリアルに捉えれば、山のタタラの男達の慰み者としての女がいたのだと思われる。
遠野市小友町に沢山の金山があり、そこで働く男達相手の娼婦もまたいたのだという。しかし小友の金山に比べ、白望山の奥は深く、人里からも遠い。途中に山村の集落でもあればいいのだが、白望山にはそれが無い。「遠野物語35」における「待てちァ」という女の叫び声は、もしかしてこの山から助けて欲しいという懇願の叫びだったのかもしれないのか?
タタラの者達が慰み者として、里から女をさらってきたのだとしたら、その扱いはどうだったのだろう?順応し、普通にタタラと生活する女もいただろうし、逆に逃げようとして捕まり、酷い扱いをされた女もいたのではないだろうか?
異界である山において、酷い扱いをされた女は精神に異常をきたし、狂女となった可能性もあったのではないだろうか?そしてその女達は、里に返される事無く、山中で死んでいったのかもしれない。
ところで去年、泊まった画家数人を夜の白望山近辺へと連れて行った。その時、自分は目の前に現れた野ウサギに目を奪われていたのだが、助手席と後部席に坐っている画家の連中は、左側の森から女の笑い声が聞こえたとかでパニックになった事がある。怪談話の大抵は、男に酷い扱いを受けた女が化けるというもので、それが現代まで続いている。男の心の奥底には、女は怖いものであるという認識があるのだろう。 とにかく山で出遭うものが、男か女かで、その恐怖度は違ったものになる。
「日本書紀」の天武天皇紀に、巫女を含む女は、髪を束ねなくとも良いという記述がある。これは髪というものは、魂をほとばしらせるものであるから、魂が抜け出ないように、大抵の場合は束ね結んだものが、古代の髪型となっている。しかし、巫女は髪を降ろす存在であり、自らの魂を振りかざしてその身を捧げる存在であるから、髪は俗に言うザンバラ髪だった。
中国に登場する物の怪の類、中国的に言えば悪鬼と呼ばれるものは、やはりザンバラ髪だった。これから、髪の毛を束ねない者は、どこか物の怪の類と見られたのだろう。その意識が日本にも流れ、怪談の…例えば「四谷怪談」のお岩さんは、生前は尽くすタイプの女性であり、髪は綺麗に束ねていた。しかし、男の裏切りに遭い殺され、怨念の塊となったお岩さんの髪は、振り乱れザンバラの髪となる。
山中で、ザンバラ髪の女性にもしも遭遇したと想像すると、その恐怖は現代でもはかりしえないものだと思う。この「遠野物語拾遺111」において山中に登場する狂女は、実話かどうかは定かでは無い。もしも空想の産物であるならば、それは男が作り上げた恐怖話であり、男が女性に抱く怖さの具現化なのかもしない。またもしくは、それが実話であったならば、山に棲むタタラの男達にさらわれた女であり、山という異界という概念に加え、扱いの問題も含めて、精神が耐え切れずに狂女となってしまったなどとも考えてしまう。