【愛宕神社慶大片隅にある稲荷】
遠野豪家村兵の家の先祖は貧しい人であった。ある時愛宕山下の鍋ヶ坂という処を通りかかると藪の中から、背負って行け、背負って行けと呼ぶ声がするので、立ち寄ってみると、一体の仏像であったから、背負って来てこれを愛宕山の上に祀った。それからこの家はめきめきと富貴になったと言い伝えている。
「遠野物語拾遺136」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野の町外れに鎮座する愛宕神社のある愛宕山の麓は、確かに鍋ヶ坂と呼ばれているのだが、また別に昔からこの鍋ヶ坂はキツネの関所とも呼ばれた。なので村兵が背負ったものは、仏像ではなくキツネが化けた姿だったのかもしれない。
豪農、もしくは長者と呼ばれる家系の殆どに稲荷の話が登場する。江戸以前は、五穀豊穣を願うのが稲荷であったが、いつしか家内安全と商売繁盛というご利益が付加されたのが稲荷でもあった。その為、稲荷を祀った為に家が発展した。商売が繁盛したという風評が流れ、江戸時代に一気に、屋敷内に稲荷神社を祀る家が増えたのであった。
土淵は山口部落にいた山口孫左ェ門一族もまた、稲荷を操る術を探り研究していたのだという。それにより、家の発展を築いたとの伝説もまたある。この村兵と山口孫左ェ門の共通は、屋敷の敷地内ではなく、人里から僅かばかり離れた、あまり人目につかない場所に祀られているのは理由があっての事だろう。
村兵稲荷と呼ばれるものは現在、興光寺という地名の場所に鎮座しているが、この「遠野物語拾遺136」を読む限り、村兵が発展したきっかけは、この愛宕山に祀った稲荷だったのではないだろうか?もしくは、この愛宕山での出来事がきっかけで後に、興光寺に立派な稲荷社を築いたのかもだ。
現在、愛宕山の愛宕神社の境内にひっそりと稲荷が祀られているきっかけとなったのは、もしかしてこの「遠野物語拾遺136」で語られる村兵の話からなのかもしれない。