デンデラ野は、漢字で蓮台野とも表記するが、蓮台野は「れんだいの」と読む。これを遠野では「デンデラノ」と転訛したのだと伝えられているが、蓮台野とは墓地であり、地名にもなり、特に京都市北区船岡山の西麓にあった火葬場が有名だ。
元々蓮台野とは、野辺送りの地だった。野辺送りとは葬列をなして、埋葬地まで死者を送る習俗の事。昔は、故人と親しい人達が棺をかつぎ悲しみの行列をつくって火葬場や埋葬地まで送ったものだが、それが野辺のような場所であったところから野辺送りといわれたようである。野辺送りは、遺体と同時に霊魂も送る儀式なので、魂が家に戻ってくるのを防ぐ為に、さまざまな送り方をしたようである。
昔は60歳を超えた老人は、すべてこの地へ追い遣るのが習わしだった。老人達は、ここで自給自足の共同生活を送り、自然な死を待ったという。やがて死が訪れると、遺体もこの地に埋葬した。村を去った老人達が、静かに最期の時を待ったというデンデラ野。目の前が真っ暗になるような話だが、同時に遠野に生きる厳しさも物語っている。ここはまさに、この世とあの世の狭間の世界だったのだ。
老人たちは、徒らに死んでしまう事もならぬ故に日中は里へ下り農作して口を糊したり。老人たちは、村の農作業が忙しい時には丘から下りてきて自分の家を手伝ったという。今でも土淵村の辺りでは、朝、野に出ることをハカダチと呼び、夕方、野から帰ることをハカアガリという。
【写真は、青笹のデンデラ野】また、青笹のデンデラ野の場合、村に死人が出るときはデンデラ野に前兆があるという。死ぬのが男なら夜中にデンデラ野で馬を引く音がする。女なら歌声や話し声、臼を搗く音がするという。この声が聞こえるというのも、魂の通る道と考えてよい。
元々霊魂を葬る蓮台野=デンデラ野という意識は、生きながらにして”あの世”に住む人々の魂を置いた地のようであった。ハカアガリとハカダチという語には諸説あるようだが、やはり「墓(ハカ)」=「あの世」という意識が働いて付けられた呼び名だという。実際、山口のデンデラ野に立つと、デンデラ野と里の間に川が流れ”あの世”と”この世”を分け隔てる三途の川としての川が流れている。
「瓜の皮 むいたところや 蓮台野 」 芭蕉 ところで、松尾芭蕉の俳句に蓮台野が記されたものがある。「瓜の皮をむいた」とあるが、瓜は前方後円墳の形もそうだが、魂の安置場所と考えられていた。つまり死から再生するものが瓜であると。元々死と再生は一体の考えは、日本だけではなく世界中に蔓延していた。古代の日本でも蛇の脱皮する姿に再生を見出したように、太陽は東から生まれ西に死に、再び東から再生すると信じられていた。
実は、古代エジプトにも「デンデラ」という再生の信仰が存在した…。エジプトのナイル川の流域にあるルクソールから北にデンデラ(Dendera)があり、そこにあるハトホル神殿は女神の母といわれるハルホトを祭った神殿であった。
世界創生の時にナイル川が大洪水を起こし、大洪水が収まり最初に水面上に現れた丘がデンデラの地であり、古代エジプトの人々はハトホル神殿がその位置に当たると信じていた。そして、暗黒の世界を照らし出す最初の太陽が、その地から昇ったと考えていたという。その地下室には、太陽が西の空に沈むと、夜の間に地下の世界(冥界)を通って西から東に太陽と朝の空を運び、再び朝日が昇る過程が絵物語と象形文字で語られている。蛇は脱皮する事から暗黒の夜から脱皮して、新しい朝を迎える日の出を象徴している。蛇はエジプト神話では女神の母ハトホルの息子であるハルソムタスを現していて、朝日の象徴としての役割を持っている。ハルソムタスは、生まれたばかりの太陽であり常にデンデラから空に昇ると云う。松尾芭蕉の俳句に記されている「瓜のかわむいた…。」もまた、蛇を象徴する再生への意識であり、それと蓮台野を結び付けている俳句である。
またデンデラという音は、後から「伝寺(デンデラ)」という意識を盛り込み伝えられたと聞くが、あくまで根底には埋葬と魂の昇華に加えて、再生があるものと考える。遠野市の小友町では、死者はデンデラ野に安置された後に回向されたという。
回向とは浄土真宗で、阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し、またこの世に戻って人々を救済する事なのだという。つまり回向とは、デンデラ野における”ハカダチ”と”ハカアガリ”と同じものでは無いのだろうか?生きながらにして、デンデラ野というあの世に行った老人達が、再び現世に舞い戻り畑仕事を手伝うというものは、回向の教義そのものである。
この事からデンデラという語源を遡ると、同意義として古代エジプトでの信仰に近いものが存在する。果たして蓮台野からの転訛なのか、もしかしてデンデラという魂の再生を現す言葉が日本に伝わり行き続けた結果なのか、まだまだ結論は先送りとなる…。
ところで、デンデラ野とセットにあるのがダンノハナである。このダンノハナの「ダン」をサンスクリッド語に訳すと「dana」と読み「布施」という意味になる。この「dana」に漢字をあてると「陀那」と書くのだと。
いつしか「ダンノハナ」の「ダン」に、漢字の「檀」があてられ、「檀」は「布施」という意味であり、布施をする者の名義である「旦那・檀那」の名が起こったのだという。 修験道で山伏が布施を受ける区域を「檀那場」というのも、ここから出た言葉だ。
北インドの太子が布施の行を修行した有名な壇特山(ダントクセン)というのがあり、壇特山はサンスクリッド語で「Dandaloka(ダンダラ・カ)」と読むのだといい、日本語に訳すと「陰山・陰野」になる。そしてこれに漢字をあてると「伝泥落迦」になった。これがデンデラ野の語源になったのではという説もある。また布施の行法を「壇波羅密(ダンハラミツ)」といい、「壇波羅」だけを取り出せば布施の行の護摩焚であり、これかダンノハナの語源になったという。
こうして考えると、デンデラ野もダンノハナまた、修験道が盛んな遠野において、密かに広がった言葉だったのかもしれない。ただ、昔であるから、文字を読めない人々が殆どだった為に、漢字という文書で広まったわけではなく、あくまで"音"で伝わった為「遠野物語」では「デンデラ野」と「ダンノハナ」という表記になったのだろう。