遠野の青笹町に、飛鳥田という地名がある。青笹では、昔この辺りは荒れ野原で鳥が沢山集まったから飛鳥と付いたという話もある。ただ飛鳥田では、田畑を起こすと時々土器や石器などが出土するようなので、以前は人が住んでいたという事になる。
ここで、時差が出てしまう。現在の遠野の…例えばデンデラ野の語源を調べる場合に今のご年配の方々から意見を聞いて、そこから判断をしてしまう。しかし曾爺まで遡ったとしてもたかだか100年程度となってしまう。口承であれば、その間にいろいろな混ぜ物が紛れる可能性も否定できないのが事実だ。青笹の地名である飛鳥田にしても「昔は、この辺りは荒れ野原で…。」と僅か100年足らずの歴史の中で判断してしまう事が、かなりあるような気がする。
例えば、アイオン台風の後、綾織地方では猿ヶ石川沿いに桜並木を植え、笠通山の頂には三笠山という石を奉納したのだという。しかし、現在の古老に聞いても、当時の長老のままにしただけだ…という答えが返ってくるだけだった。これから考えてみても、飛鳥田の「昔は荒れ野原で…。」という答えは、現在を知る人々の感想であって、飛鳥田の地名考とはならないような気がする。
ところがもう一つ、1200年前に蘇我氏に追われた物部氏の一族が住み着いたからという伝説もある。ただし1200年前となると大同元年頃であり、蝦夷征伐の後、早池峰神社が建立された時期となってしまう。物部と蘇我の争いで有名なのは聖徳太子と共に仏教伝来をかけての戦だ。これは用明命天皇が崩御した後なので586年頃だ。
しかしもう一つ、物部氏が蘇我氏に追われたと云われるのは、更に以前の歴史があったようだ。それは、蘇我氏の出現が北魏から北海道を経て東北に下って来たというものがある。ついでに記せば、飛鳥田側に、現在では青笹と土渕の境界線に飯豊という地名がある。飯豊とは古来から伝わるのには飯豊女王という葛城系の蘇我氏出身の人物がいる。
「アスカ」という地名は「スカ」が本義であり「ア」は接頭語だ。「スカ」の意には「砂州」という意味があり「アスカ」としては「湿地帯」という意味で広く伝わっている。また広島県には「安宿(アスカ)」という地名があり「アンスク」とも読むようだが、これは「安住の地」という意もあるらしい。
全国の「アスカ」には奇妙な共通点があり、霊山などの修験の山々の北西もしくは北北西に「アスカ」という地があるという。これを遠野に当てはめてみると、六角牛山があり、そのだいたいの北西に飛鳥田がある。六角牛山は、古来から修験の山であり、旱魃などの時は山頂で千駄木を焚き雨乞いの儀式をよくしたのだという。その修験の山である六角牛山の北西方面に飛鳥田という地があるという事は偶然だろうか?
ところで、山形県の羽黒神社や羽黒権現のある羽黒山頂から北北西に飛鳥という集落がある。そしてこの飛鳥村に飛鳥神社がある。山形県といえば、真っ先に思い浮かべるのは蜂子皇子の存在だ。蜂子皇子は聖徳太子の従兄弟で崇峻天皇の子でもある。その蜂子皇子が大和を出て羽黒山を開いたのが584年で死去したのが584年であるという。修験の開祖として有名な役小角が伊豆に流されたのは699年で、蜂子皇子の死後57年も経っている。これから考えると、修験道の開祖と呼ばれても良いのは蜂子皇子ではなかったのか?
蜂子皇子に付随した伝説に、三本足の烏に導かれて羽黒に入山したというものがある。三本足の烏熊野権現でのシンボルである八咫烏であるから、古来から羽黒修験と熊野信仰は密接に結びついていたのだろう。山形の飛鳥神社の縁起では、大同2年に大和の飛鳥神社より勧請されたもので飛鳥村という名も、これから出たのだというのが一般的だ。ただこの地は、仁徳天皇時代に、その第16子を連れてきて祀ったとあるので、そうなれば4世紀にはもうすでに山形の飛鳥という地は、開けていた事になる…。
ところで飛鳥田の伝説に、蘇我氏に追われて逃げ延びた物部氏とあるが、物部氏の痕跡が色濃く残っている地域に綾織がある。代表的なのは、石上神社だ。「綾織村誌」には天孫降臨を思わせる、天の磐船の伝説がある。「秋田物部文書」には、鳥海山に天の磐船に乗った神饒速日命の天孫降臨の話が伝わっている。そして綾織には、天の磐船に乗った三女神が石上山に降り立った伝説がある。石上そのものは、物部氏が後に名乗った名でもあった。
石上神社の主祭神は、経津主命。この神の名は、剣を「振る」の意味、また剣を振った時に「フッ」という空気を切り裂く音がすることから生まれたものと云われる。実際に綾織石上神社には、神刀(銘宝寿)一振りが奉納されているのは、主祭神である経津主命を意識してのものだろう。そして経津主命は元々物部氏の主神でもある。
この綾織の神刀は、また妖刀とも云われ、以前石上神社の宮司がこの神刀を手放した先々に不幸が降りかかる為、次々と人手に渡って、再び遠野の地へと戻ってきて、今は博物館所有となっている。石上神社自体は阿曽沼広綱が閉伊郡入部の際に勧請したと伝えられるが、六角牛神社もそうであったように、元々は山自体を祀っていたものを、社を建てて祀るという流行にのっとって建てられたのが阿曽沼時代だったのだろう。
大同元年(806年)当時の遠野三山は、早池峰山・薬師岳・天ヶ森だったと伝えられる。上郷の伊豆神社から一直線を神の山と崇めたのだろう。それとは別に、当時の綾織村では、綾織三山として石上山を中心に笠通山と二郷山とが霊山として信仰されていた。後に阿曽沼時代になり、遠野三山を改め早池峰・六角牛山・石上山となって、現在に至っている。
それと別の伝説では石上山では白鳥を祀るとされ、また別に胡四王神社も綾織に存在した事から、綾織地方は独特の信仰の形を有していたのは、後に書く事とする。