早池峰山頂には、開慶水(開基水)と呼ばれる霊泉がある。この霊泉は、常に清水を湛え、霖雨に溢れず、旱天にも涸れぬという。そして不浄を加えれば忽ちに涸れ、祈れば即ち湧くというものである。
この伝説を帯びた開基水の伝説の根源は、高千穂の天の真名井から発せられ、どうやらこの早池峰の山頂へも届いていたようだ。天の真名井は、アマテラスがスサノオの剣を取り宗像三女神を化生させた誓約のシーンに登場する、聖なる泉だ。その原義は別に、遠野に広がる沼の御前伝説にも繋がっていくようである。
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昔、無尽和尚が東禅寺の伽藍を建立しようとした時、境内に清い泉を欲しいと
思い、大きな丸型の石の上に登ってはるかに早池峰山の女神に祈願した。
ある夜に美しい女神が白馬に乗って、この石の上に現れ、無尽に霊水を与え
る事を諾して消え失せたと云う。
一説には、無尽和尚がその女神の美しい姿を描いておこうと思い、馬の耳を
描き始めた時には既にその姿は消えてなかったという。
また、別にこの来迎石は早池峰の女神が無尽和尚の高徳に感じ、この石の
上に立たれて和尚の読経に聞き入った処だとも伝えられている。
女神から授けられた泉は、奴の井とも開慶水とも言い、今に湧き澄んでおり、
この泉に人影がさせば大雨があると伝えられ、井戸のかたわらに長柄の杓を
立てておくのはその為だという。
「遠野物語拾遺40」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「古事記」では剣によって化生した宗像三女神だが「日本書紀」では、八尺瓊の勾玉によって化生した。「釈日本紀」では「先師説伝。胸肩神体。為玉之由。見風土記。」とあり、宗像のご神体が玉である事を明記している。よって剣とも縁は深い宗像だが、それよりも繋がりの深さは玉にある。これは、宗像の女神が出雲に迎え入れられ、八千矛の神と結ばれた為の剣の結び付きで、本来は玉の女神なのだろう。
トンデモ本では、出雲大社の神々が本殿の向きに逆らって西を向いているのは、太陽の沈む死の方向を見据えているとも書き記されているが、もしかしてこれは宗像の方向を見つめているのではないだろうか?
出雲大社を調べると、左右の位置の上下関係は常に左を上位としているようだ。本殿の左に位置するタゴリ姫を祀っている筑紫社は、当然出雲大社としての位置付けでは上位として捉えていいのだろう。それだけ大切な関係なのだと考える。ところで大国主であり八千矛の神は、宗像の女神だけでなく、越の国の 沼河姫をも迎え入れている。
沼河姫の名は、越後の沼川郷の地名の由来ともなっているようだが、 「日本書紀」には「天渟名井」またの名を「去來之眞名井」とあり、これは高天原の「天眞名井」の事となる。 「真名井」などといろいろ記されるが本来は「マヌナヰ」の略で、「天眞渟名井」がどうも正確な呼び名のようだ。
「ヌナヰ」の「ヌ」とは瓊であって赤玉の義であり「ナ」は助詞で「ノ」と同じ。つまり「ヌナヰ」とは「玉の井」という意味となる。つまり「ヌナ井」とは、清浄な水を湛える聖なる井の意味であり、これが「マヌナ井」となれば、その底に玉を沈めた井という意味になる。
沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて
得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも 万葉集に載っている歌だが、この歌から、聖なる水の底に沈んだ玉には、生命の根源が宿っている感がある。つまりこれは月の変若水を詠っているものだろう。天武天皇の和風諡号を「天渟中原瀛眞人天皇」と書き記した事から、天武天皇もまた「天眞渟名井」を求めた…つまり不老不死ともなる月の変若水を求めた一人だったのかもしれない。
万葉集には、先程の歌の前に二首の歌を載せている。
天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水
い取り来て 君に奉りて をち得てしかも
【返歌】
天なるや 日月のごとく 我が思へる 君が日に異に 老ゆらく惜しも 古代、玉とは勾玉の事を云った。玉の沈んだ沼や井には、その月の代用品?でもある勾玉が沈んでいるものと思われたのではないだろうか?月は、満ちては欠けるを繰り返す姿から、復活とか若返りを持つ力を持った存在と思われたようだ。その月の力が勾玉に宿り、その勾玉が沈んでいる水を聖水・聖泉として信仰されてきたのだろう。
これらによって越の国の沼河姫も、名前を紐解くと「瓊の川の聖なる女神」という意味となり、古代翡翠の産地だった越の国と出雲が結び付いたのは、宗像と出雲の結び付きに近いものであったのだろう。
三種の神器というものがあり、鏡・勾玉・剣というのが一般的だ。ただし、その文化には、時代の流れがあるようだ。
鏡は太陽を現すもので、農耕文化の発達と共に太陽信仰が成されて鏡に対する信仰が根付いたものだと考えれば、それを持ち込んだ者は、天孫族であり天津神系となる。出雲は国津神と呼ばれ、古来から勾玉を信仰してたのはわかる。つまりその根底は、狩猟民族でもあり、漁を獲ってきて生計を結んでいた海洋民族でもあった。そしてその信仰は月であり、勾玉であった。
丸い鏡が太陽であるならば、その対で現される月は三日月形であり、勾玉の形となっているのだろう。天津神々が、日本の国津神を滅ぼして大和朝廷を作った歴史から考えると、古代日本の信仰は月信仰が太陽信仰よりも古いという事になる。
実際、勾玉が発掘される年代を考えても、古代から勾玉=月という信仰が、この日本に根付いていたのだと思う。それを太陽信仰と組み合わされて作られたのが「古事記」などであり、太陽信仰を中心とするよう、作為的に編纂されたのだろうというのはわかる。「古事記」での、所謂天岩戸神話の中で、天照大神の再出現を希望する祭祀儀礼がある。
「天香山に生う、青々と葉の茂った榊を、根こそぎ掘り起こし、上枝には八尺瓊勾玉を五百個連ねた頸飾りをとりつけ、中枝には八咫鏡をかけ、下枝には、白い木綿の和幣と、青い麻の和幣を取って垂らした、これらの種々の品は、布刀玉命が神前に献る御幣として、両手に捧げ持った…。」
ここには、剣が登場していない。剣の導入時は、本来武器であったが、後に神の降臨する依代としてその形ができあがったようだ。つまりそれ以前、剣の代わりとなっていたのは榊=賢木であったのだろう。また、白い和幣と青い和幣てが登場しているが、白は太陽を表す色であり、青は月を現す色だ。ここには鏡と勾玉が登場している事から、太陽神と月神の二神を祀るのが本来の形だったのかもしれない。