「東日流外三郡誌」が世に出て、アラハバキ神というものが流行った感があった。その為、今迄の祭神をアラハバキ神に変更する神社もあったというのは、流行にのっとったものだとも感じていた。そのアラハバキ神は、未だに謎の神で「蛇神説」「塞の神説」「製鉄の神説」などという様々な説がある。
相模国に、小野神社がある。実は武蔵国にも小野神社があるのだが、以前は神奈川県の横浜市の東部までが武蔵の国であったから、同系列の神社なのだろう。ところで相模の小野神社の祭神は、現在は日本武命を主神とし、境内社に天下春命と春日明神に阿羅波婆枳神を祀っている。「新編相模風土記稿」によると「祭神は天下春命で、阿羅波婆枳、春日の二座を相殿とす。」とあり、かっては阿羅波婆枳神も本殿に相殿で祀られていたようだ。
実は本来、阿羅波婆枳神を主祭神としていたのを「紀記神話」に付会させるという中央の圧力をかわす為、天下春命を主神の座に置いたようだ。しかしこの小野神社は何故か、明治時代になって、祭神を日本武命に変更してしまった。その祭神変更の根拠を「古事記」に求めたようだ。
ところで、弟橘比売の歌がある
。「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問いし君はも」とうたまいき…とある。君とはヤマトタケルであり、その火中の模様は下記の記述となる。
故ここに相模国に至りましし時、その国造詐りて白ししく「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、甚道速振る(イトチハヤブル)神なり」ともおしき。ここにその神を看行わしに、その野に入りましき。ここにその国造、火をその野に著けき。故、欺かえぬと知らして、その姨倭比売命の給いし嚢の口を解き開けて見たまえば、火打その裏にありき。ここにまずその御刀もちて草を苅り撥い、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退けて、還り出でて皆その国造等を切り滅して、すなわち火を著けて焼きたまいき。故、今に焼遺と謂う。
弟橘比売の歌にある「相模の小野」を取り入れて主祭神をヤマトタケルにしたのだが、こうした中にも未だ末社に落とされた「阿羅波婆枳」を一音一字表記という古体を残しているというのは、小野神社の意地ではないだろうか?つまり明治時代に「古事記」のヤマトタケル記を由緒に持ってきたのは、実は表向きはヤマトタケルではないのかもしれない…。
アラハバキの説には諸説ある中に、谷川健一の唱えた賽の神説がある。宮城県にある多賀城跡の東北に、アラハバキ神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。阿良波波岐明神の位置が多賀城を囲む築地の外に、しかもそ築地の近くに置かれている事が、明らかに外敵退散の為に置かれた事を伝えているのだと。
朝廷にとっての外敵とは、当然蝦夷であり、陸奥の鎮守として創建された多賀城の役割は、蝦夷を治める事以外、何も無かった筈だとされる。朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」であった為、元々蝦夷の神であったアラハバキを多賀城を守るための塞の神として配し、蝦夷を撃退しようとしていたという。これは坂上田村麻呂の蝦夷征伐の「鬼をもって鬼を制す」と同じ考えの朝廷の意思であろう。つまりこれは、アラハバキに「塞の神」としての性格を付与したのだろう。
またアラハバキ神社は荒鎺神社とも記し、この「鎺」という漢字は「鎺金(はばきかね)」とも言い、刀や薙刀などの刀身の区際にはめて鍔の動きを止めて、刀身が抜けないようにする鞘口の形をした金具となる。脛巾を付けた様な形からそう呼ばれるのだと。この事から当然、アラハバキ説の一つである「製鉄の神説」も含まれるのだろう。つまりアラハバキには製鉄から発生した剣に対するイメージが組み込まれているのではないだろうか?
話を小野神社に戻すが、この小野神社創始の小野氏は本来、出雲の兄多毛比命の流れから発生した一族であるという。その兄多毛比は景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わった、大伴武日であるという。これは出雲の信仰の流れが、武蔵国と相模国に根付いたものであり、相模国の小野神社は出雲系の流れを汲む神社なの
だろう。
武蔵国一の宮である小野神社があるが、その祭神は天下春命に瀬織津姫が鎮座している。また、武蔵国多摩の小野神社の祭神も、天下春命と瀬織津姫となっている。どちらも小野氏が絡んでいるが、相模の小野神社だけは、瀬織津姫ではなく阿羅波婆枳神社となるのは、本来瀬織津姫と阿羅波婆枳神が同じものであったのだと推察する。それは先に記したヤマトタケル記に登場する「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、甚道速振る(イトチハヤブル)神なり」が実は元々この地に鎮座していた神であり、それがアラハバキ神であり、瀬織津姫であったと推察する。
ヤマトタケルは、まつろわぬ神々を平定する為、東征していた。そこで相模国に「甚道速振る神」がいた為、様子を見に行ったのだが、国造の策略にはまり野に火を付けられたのを、倭比売から給わった火打ちで火を打ち出でて草薙の剣によって国造らを焼き退けた後に、切り倒してしまう。
草薙の剣は、元々ヤマタノオロチの尾から出た剣で、出雲の象徴ともなる。また瀬織津姫は出雲の繋がりも深く、本来天照大神とスサノヲ神との誓約の時、剣から発生した宗像三女神と同一と云われる。
ヤマトタケルを味方したものは、アラハバキ神であろう甚道速振る神の鎮座する地であり、出雲の象徴であった剣であった。だから相模国の小野神社は明治時代になり、中央への陰ながらの訴えも含め草薙の剣を駆使したヤマトタケルを祭神にし、その由来を「古事記」のヤマトタケル記に求めたのだと考える。
蝦夷の地を制するには「鬼をもって鬼を制す」また「蝦夷をもって蝦夷を制す」坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後に、瀬織津姫が東方鎮護の意味合いを持って各地に祀られたのも、同じ意向からであろう。相模国の小野神社も、蝦夷によって蝦夷を制すを良しとした為の、表向きのヤマトタケルであったのだろう。
また確証は無いのだが、遠野のあちこちに広がる「沼の御前信仰」というものは、やはり「古事記」のヤマトタケル記の流れを汲んでいるのではないだろうか?
「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、甚道速振る(イトチハヤブル)神なり」