日本における蛇に関する伝説はは古来から、いろいろと伝わるけれど、この上田秋成「蛇性の婬」を民俗学的に紐解いていきたい…。
主人公の豊雄は、漁師の息子として生まれた。男二人に女一人の兄弟で、一番下の次男坊だ。長男は父の元で、素直に生業に勤しんでいるが、この豊雄は優しくて雅な事を好む、浮世離れしているというか、今でいうニートみたいな存在だ。
ところで、この話に登場する重要な”蛇”は、俗に鱗族とも呼ばれる。そう蛇と魚は同じ仲間という事で、これは陰陽五行でも同じ種という事になる。豊雄の父も兄も漁師で、鱗族を捕らえるという、云わば天敵みたいなものだ。蛇からすれば憎き存在だが、その同じ漁師の息子でありながら、豊雄はまったく漁というものをしない。蛇族にとって、たぶらかすには丁度良い存在が豊雄というわけだ。つまり鱗族を捕らえる憎き存在に対して敵討ち?をするには、天敵の一族でありながら天敵に成り得ない、漁に携わらない豊雄は格好の餌食だ。とにかく深読みすれと上田秋成は、こういう設定を頭の中で思ったのかもしれない。
また蛇は、龍にも通じる。和ぎたる海に突然、東南の雲が発生し雨が降り、豊雄と蛇女との出会いが発生する。東南は辰巳の方角で、龍と蛇を示す。とにかく蛇を含むいろいろなものが、上田秋成は意図的に、文章の中に散りばめている筈だ。
豊雄と蛇女である真女児が出遭うわけだが、真女児は濡れている。「しとどに濡れてわびしげなるが…。」というように表現している。濡れている女で思い出すのは妖怪濡れ女で、さらに鳥山石燕だ。多分秋成は「画図百鬼夜行」を知って真女児を作り出したような気がする。
ちなみに「濡れ女」とは、顔が人間の女で身体が蛇。古老の話では、濡れ女の尻尾は三町先まで届くので、見つかったら最後、どんなに逃げても必ず巻き戻されるという。また、川に潜み渡ろうとする人を引きずり込むのだという。そして鳥山石燕の描く濡れ女は、鱗に覆われたような腕を持ち、鋭い牙と長い舌を持つ鬼女のような顔をしている。そして豊雄との出会いの後すぐに、歌が詠まれる…。
くるしくもふりくる雨が三輪が崎
佐野のわたりに家もあらなくに
(ちょうど都合悪く、今降り出した雨だなぁ。この三輪が
崎の佐野のあたりは、雨宿りする家も無いのに。)
考え過ぎかもしれないけれど、三輪という言葉で思いつくのは、蛇を祀っている三輪山。そして佐野という地名なのだが、鳥山石燕の本名は佐野 豊房という。奇しくも、いろいろな意味で、この地が「蛇性の婬」の出発点になったと考えるのは無理があるだろうか?秋成の事だから、この辺を意識しながら、物語の創作をしたような気がするのだが…。
真女児と豊雄の出逢いがあり、まだ雨が降っている為か、別れ際に豊雄は真女児に傘を渡す。その当時であろうから多分”蛇の目”だとは思う。真女児は「新宮の辺にて『県の真女児が家は』と尋ね給はれ」と言う。そして豊雄は、傘の代わりに蓑笠を着込んで家へと帰った…。
古来、日本には蛇信仰が盛んで、様々な蛇の見立てのものがある。傘である蛇の目傘は、その名の通り蛇の目だ。また、蓑笠もまた蛇の見立てのものである。つまり蛇に魅入られた豊雄は、その証拠として蛇の目傘を真女児に渡し、自らは蛇そのものを示す蓑笠を着込んで帰るというのは、完全に蛇に魅入られた証であると思う…。
「蛇性の婬」の前半部は、豊雄と真女児との劇的な美しい出逢いを表現している箇所ではある。しかし、よくよく読み解いてみると、蛇に魅入られた豊雄の後半の境遇に暗雲が広がるような、蛇の暗示が無数に出ているのがわかる。また地図を見てわかるように、紀伊半島の反対側には「安珍・清姫伝説」で有名な道成寺がある。
この真女児の名の由来の一つに「安珍・清姫伝説」の清姫は真砂(まなご)の庄司の娘であるから、この真砂から真女児という名前が付けられたのでは?という事である…。