【百太夫伝説】 西宮の傀儡師は西宮神社に所属し、同神社の祭神である蛭児をかたどった人形を舞わし、蛭児神信仰の功徳を宣伝しながら神社のお札を売って回るという宗教活動に従事していた。それが夷舁の生活であった。
漁村の和田崎(現・神戸市)の長者・百太夫が、ある日、海上を漂っ
ている光る物を見つけ、近寄ってみると十二歳ぐらいの子供であった。
その子は「私は古代の蛭児である。いまだ住む場所もなく海を漂って
いるので海岸近くに仮宮殿を建ててほしい」と頼んだ。
そこで建立されたのが西宮神社で、同神社には道薫坊という者がいて、
蛭児に仕えて気に入られた。しかし、間もなく道薫坊が死に、海の神に
祭り上げられた蛭児神を慰めることができなくなると、海が荒れ、魚介
類も獲れなくなった。
そこで、百太夫が道薫坊の人形を作って舞わすと豊漁になった為、それ
以後、百太夫はこの人形を舞わして全国巡業するようになったという。 この百太夫は死後、西宮神社境内の百太夫社に人形遣いの元祖として祭られている。そして、淡路島に残っている伝説では、この百太夫が巡業先の淡路島三条村(現・三原町)の娘と結ばれて生まれたのが、淡路人形座を創設した源之丞であるという。
「古事記」では、蛭児はイザナギ・イザナミの最初の子供で、三歳まで歩けなかった為に捨てられた子供であるが、これは見た目も気持ち悪い為でもあったようだ。そしていつの間にか、百太夫と蛭子は同一視されたようだ。
ところでもう一つ、美と醜の対比のものがある。その当時、遊女は倶尸羅の再来であると云われたらしい…。
倶尸羅とは、インドの黒ホトドギスで形は醜いが美声であるのだと。歌女が転じて遊女となった事を踏まえると、実は歌は上手いが形は醜い筈の遊女である宮木は、誰もが羨ましがる美人であるというのは、「吉備津の釜」での磯良と同じ遊びのような気がする。
磯良大神は醜い神で有名なのを、敢えて上田秋成は美人として磯良を登場させた。そしてこの「宮木が塚」でも、醜いが歌が上手い遊女である宮木を、類稀なる美人として登場させている。これは、上田秋成個人が密かに遊んでいるものだと考えてもいいのだと思うのだが…。
ところで、蛭子(ヒルコ)=恵比寿(エビス)=蛇という図式がある。まあついでに書いてしまえば…蛭子は夜に海を渡った時に、フカに片足を食いちぎられてしまう。それから一本足となってしまったのが蛭子なのだが、元々蛭子と恵比寿は同一人物。
恵比寿様は、頭に烏帽子を被っているが、この三角形の前に垂れている烏帽子は、元々蛇の頭を示すもの。そして片足の蛭子は、蛇も一本足である事から、やはり同じもの。
映画「もののけ姫」でもエボシ様が山犬に片腕を食い千切られて、やはり蛇としての存在だった。そう、蛇とは片腕片足を示すもの。畑の中の一本足の案山子もまた、蛇と同じに片足でスズメやネズミを食べてしまう畑の守り神。そう、案山子もまた蛇として昔から尊ばれたものだった。
大抵の人々を嫌う蛇を…特に女性が嫌う蛇を、遊女は守り神として信仰した。これは凄い皮肉のようなものだと思う。昔の女性の下着は、腰巻であった。そして昔の女性の遊びといえば、野山に行って花摘みをしてお昼寝…。しかし昔から寝ている女性の陰部に蛇が侵入し、死に至る事件も多かったようだ。それが川柳にも歌われた…。
「田舎医者蛇を出したで名が高し」 川柳に詠われるほど、頻繁に蛇は女性の陰部に侵入したらしい。「今昔物語」でも、厠に潜み女性を付け狙う蛇の話があるように、田舎であろうが都であろうが、とにかく女性の陰部に蛇が侵入し死に至った話が多い事から、とにかく女性には忌み嫌われたらしいが…遊女は、その蛇そのものを信仰した…だからか、この皮肉が上田秋成の琴線に触れ「宮木が塚」を書き上げたのかもしれない。
法然の時代は、末法思想のど真ん中に当たる。法然は1133年~1212年までの間生きているが、末法思想がいつから始まったとなると、一番強い説が1052年からだったと云われている。
その頃の社会情勢は、流行病で死骸が道路に満ち溢れ、東北で前九年の役が起こり、疱瘡・麻疹が大流行し、寺同士の争いが絶えず、後三年の役が起こるなど、現実そのものが末法の世となっていた。現世を否定すれば、当時の民衆にとって熱烈に望まれるのは浄土というユートピアだったのだろう。坊主達は、挙って焼身往生・入水往生が行われたと云う。
そんな中、高僧である法然に身を委ね入水する宮木の行動は至極当然だったのだと思う。しかし、この「宮木が塚」を書いたのは江戸の世だ。
上田秋成は、平安の世に蔓延った末法思想を江戸の世に知らしめる為に書き綴ったのでは無く、法然を登場させる事により、法然の思想の一部にある往生夢を、自分にダブらせて書き綴ったのでは無いのだろうか?
聖徳太子に始まったであろう夢信仰は「日本霊異記」で幅を利かせ、仏教人でも法然・親鸞・明恵などと、夢枕に仏様や観音様がお立ちになり、お告げをするというもの。それを夢でありながら、それを現実と捉え、自らの悟りにも組み入れるような風潮があった。
「源氏物語」でも、夢の話は数多く登場し、小野小町などは自らの願いを夢に託すという歌も詠んでいた。しかし太平の世である江戸時代に突入し、夢信仰は一般庶民にも普及していって変化していったようた。「一富士二鷹三茄子」という今でも有名な夢の序列?が伝わっているが、それと共に一般庶民も読むようになった文学の影響が大きいような気がする。
江戸時代の夢が登場する文学の殆どが「夢落ちパターン」で終っている…というのは、いつの間にか夢はあくまでも夢であり、現実とは違うのだよ…となってしまったようだ。上田秋成の「よもつ文」の終わりには…。
「あな恥ずかし、愚かさのあまりには、
かくあさはかなる夢見はすなりけり。」 という一文で締めくくられているのは、上田秋成が夢に押し流される事なく、それを客観的に見つめる現実感覚に優れていたのだと思う。
基本的に、幻想文学者と言ってよいと思う上田秋成は「よもつ文」に、既に亡くなっている三年ほど使えてくれた”いさ”が夢に登場して、夢とも現実ともつかぬ文章を形成しているが、ここまで詳細に夢を書き留めているという事は、上田秋成自身が夢の多くから、いろいろな影響を受けていたのかもしれない。
過去の仏教人である法然・親鸞・明恵などは結局、自らが勉強して知った知識の一部であり、その想いが積年されて、夢として登場しているのを、自らの願望ではなく、リアルに観音が御立ちになってくれたものという自己完結で終わっている。ここでもう一度、上田秋成の一文を示そう…。
「あな恥ずかし、愚かさのあまりには、
かくあさはかなる夢見はすなりけり。」 これ↑は、江戸時代に既に廃れた夢信仰であり、夢を信じるという事が、いかに恥ずかしいものかを現している文だと思う。またその逆、「よもつ文」で”いさ”の登場した夢の文章を書き綴っているというのは、元々上田秋成本人が夢見がちな人物であり、その自らの見る夢において霊感を得ていたように思えてならない。上田秋成の一連の作品には、過去の文学(源氏物語や伊勢物語)などの一文や、伝説・逸話などが多く取り入れられているのだ…。