尋常小学校の教科書には、「ウソヲイフナ」の言葉と共に、画像の様な挿絵が掲載されていた。「嘘は泥棒の始まり」というが、例えば「遠野物語拾遺71」での、盗んだ事を白状しなければ、狼に噛まれるというのも一つの”嘘を言うな”である。神仏に誓いを立てると云うのは、現代の裁判においての宣誓と同じである。同じく、嘘を言えば罰せられるのだ。
これは熊野の護符、所謂”起請文”も同じである。この熊野の起請文は、熊野の神に誓いを立てるもので、もしも誓いを破る、もしくは嘘を言ってはならないのだと。古代から、誓約というものは神聖なものであったのだろう。少し違うが
「遠野物語拾遺65」では、遠野から古峰ヶ原に参詣したものの長芋を持参しなかったので、忘れたと嘘をついたところ、翌日には嘘をついた遠野の者の小屋が焼かれたという話が紹介されている。天狗はいつしか、火を司る存在となっていた。天狗のイメージが確立されたのはやはり、山伏からであるが、熊野では山伏は狼とも呼ばれる。
ところで
村山修一著「神仏習合の聖地」には、熊野の那智を代表するものは、やはり滝を中心とする那智大社七月十四日の扇会式例祭、または扇祭の名で親しまれる儀式であると紹介されている。
村山氏は「要するにこうした火の祭典は、大滝を囲む光が峰を代表とする山岳霊域から、生産増殖・農作豊穣の結神を迎える太陽信仰に他ならない…。」と結んでいる。しかし、それだけであろうか?
嘘というものは、一つの罪である。日本人は、古来から「水に流そう」という言葉の元において、あらゆる穢れや罪を水に流してきた。画像は、遠野の北に聳える早池峯と薬師の麓に流れる又一の滝である。又一の滝の名は、後付けの話が一般的に伝わっているが、本来は
”太一の滝”であるものと考える。
吉野裕子著「陰陽五行と日本の文化」において、宇宙の実相を示す色とは紫であるという。ところで太一とは正確に”天帝太一”。宇宙の中心として北極星の神霊化でもある。当然、その居所は北天であり「紫微垣」と知られる。陰陽五行においての北の色は黒色となるが、その五行に陰陽の混じった間色があり、陽の赤色と陰の黒色が混じり合って出来た色が紫となる。よって北に位置する正しい色は、紫であるのだと。神仏の現れる様に”紫雲”たなびくとあるのは、まさしく神の息吹を現したものなのだろう。
神仏に手を合わせるとは、右手と左手を合わせるのだが、右手とは「水(み)」を意味し、左手とは「火(ひ)」を意味する。つまり紫色とは、水と火の融合によって誕生する色というのがわかる。ところで穢れや罪を「水に流す」というものに加え、どんと焼きなどでは、やはり穢れたものなどを火にくべて焼きつくし浄化させる。火もまた穢払いのものであるのが、理解できる。どんと焼きの開始前に”大祓祝詞”がよまれるのが、その証だろう。
水と火を合わせるだが、先に紹介した熊野那智の扇会式例祭は、滝という水の根源を火で囲むというもの。これはあくまで主体は水であり、その主体に火を合わせるものと感じる。もしかしてそれは、神前において、左足から進むというのに何か関係があるのだろうか?
ところで
「万葉集」巻十六の三八三三に、こういう歌がある。
「虎に乗り 古家を越えて 青淵に 蛟竜捕り来む 剣大刀もが」
この歌の訳は「
虎にまたがり、古家の屋根を飛び越えて、薄気味悪い青淵の主の蛟龍を退治して来たい。魔除けの霊剣があればいいのに。」と簡単な訳はなされているが、本来の意味は不明とされている。ただ言えるのは、ヤマタノオロチ退治に十拳剣が使われているように、龍蛇退治には霊剣が必要であるという事。ただ虎は古代において有り得ないが、唯一虎と繋がるのは毘沙門天だ。
毘沙門天は、虎にまたがっているのだから。
自分は、この万葉集の歌を、こう考える。古家とは、既に征服した土地であり、それは蝦夷の国でいえば多賀城までだと。また青淵とあるが、青は古代、緑と同じであったが、緑は碧であり、それは勾玉を意味する場合でもあった。勾玉は月の滴を生み出すものでもあり、それは天の真名井の信仰と結び付いていた。また青には若々しいとか幼いなどの意味合いも含まれており、これから察すれば、この万葉集の歌とは、蝦夷の地を征服する為の意味合いを含んだ歌では無かったのか?坂上田村麻呂が蝦夷征伐の後、いくつかの兜跋毘堂などを建立しているのも、その意味合いを強くするものだと考える。古代採鉄信仰には龍蛇信仰が結び付いている。蝦夷の国には、優れた鉄の文化があったのは歴史的事実である。その資源と技術を奪う為でもあった蝦夷征伐でもあった。毘沙門天の使役に百足がいる事から、伝説に登場する
”蛇VS百足”の戦いが、蝦夷の地でも起こったのだろう。坂上田村麻呂は、武力ではなく和平で蝦夷を制したと云われる事から、蝦夷の地に祀られている神と信仰、そして文化に、田村麻呂がもたらしたものとの融合を果たしたのだろう。だからこそ、田村麻呂の英雄譚は今なお根強く残っている。(話が飛んで申し訳ない…。)
滝は、瀑布とも云われ、一つの幡でもある。それは神の依り憑く幡でもあるのだ。また別に、龍の見立てにもなる。その滝に熊野では、滝を火で囲む。これは確かに豊穣祈願でもあるだろうが、踏鞴による剣の製造に火と水がかかせないように、もしかして踏鞴の意味合いをも含んでの事では無いのか?瀑布である滝に火を掲げる事により、それは瀑布では無くなって、一本の剣に化成した姿を意味しているのでは無いだろうか?そうであるならば、水神が剣を手にする像に違和感が無くなるのだ。
陰陽五行には、相克関係がある。長い説明は省くが、水は火を消すものだ。だがその水も、樹木が抑えるというが、陰陽五行の学問だ。しかし古来から、水の強大な力を人々は垣間見て来た筈だ。木々をなぎ倒して山を押し崩しまた、火を鎮める。水のその力は、相克云々ではなく、独立した神に等しい力であった。人類の歴史を紐解いても、水を克服する歴史が今なお続いている。その力が龍と結び付くのは、当然の成り行きであったのだろう。
その水の根源である滝があるのは、山となる。しかし山に滝をもたらすものは、天からの水(雨)である。つまり山とは、天との境界でもあり、天と交信する地でもある。それゆえの祭りだと思われるのが、那智の扇会式例祭であり、そこには五穀豊穣と霊剣を見出す願いが込められたのだと想像する。那智の滝は、日本一の滝である。それ故に、那智の護符である起請文の価値が、天にもっとも近く、一番重かったのだろう。つまりそこには、山の神と水神の同一性を感じてしまうのだ。
よく「真っ赤な嘘」というが「真っ赤」は「明らか」に通じ「明らかな嘘」という意味ではあるが、これはつまり
”天には全てお見通し”であるという意味を含んでいる。その天に通じる山の神であり、水の神の眷属である狼や天狗に対し、嘘は通じないのである。そしてこの嘘に対する罪の意識を広げ運んだのも、熊野修験者であり、歩き巫女であったと考えるのだ。