松崎村の字矢崎に母也堂という小さな祠がある。昔この地に綾織村字宮ノ目から来ていた巫女があった。一人娘に聟を取ったが気に入らず、さりとて夫婦仲は良いので、ひそかに何とかしたいものだと思って機会を待っていた。
その頃猿ヶ石川から引いていた用水の取り入れ口が、毎年三、四間が程必ず崩れるので、村の人は困り抜いて色々評定したがよい分別も無く、結局物知りの巫女に伺いを立てると、明後日の夜明け頃に、白い衣物を着て白い馬に乗って通る者があるべから、その人をつかまえて堰口に沈め、堰の主になって貰うより他にはしょうも無いと教えてくれた。そこで村中の男女が総出で要所要所に番をして、その白衣白馬の者の来るのを待っていた。
一方巫女の方では気に入らぬ聟を無き者にするはこの時だと思って、その朝早く聟に白い衣物を著せ白い馬に乗せて、隣村の附馬牛へ使に出した。それがちょうど託宣の時刻にここを通ったので、一同がこの白衣の聟をつかまえて、堰の主になってくれと頼んだ。神の御告げならばと聟は快く承知したが、昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから、私の妻も一緒に沈もうと言って、そこに来合せている妻を呼ぶと、妻もそれでは私も共にと夫と同じ白装束になり、二人でその白い馬に乗って、川に駆け込んで水の底に沈んでしまった。
そうするとにわかに空が曇り雷が鳴り轟き、大雨が三日三夜降り続いた。四日目にようやく川の出水が引いてから行って見ると、淵が瀬に変わって堰口に大きな岩が現われていた。その岩を足場にして新たに堰を築き上げたので、もうそれからは幾百年でも安全となった。それで人柱の夫婦と馬とを、新堰のほとりに席神様と崇めて、今でも毎年の祭を営んでいる。
母の巫女はせっかくの計らいがくいちがって、可愛い娘までも殺してしまうことになったので、自分も悲しんで同じ処に入水して死んだ。母也明神というのは即ちこの母巫女の霊を祀った祠であるという。
「遠野物語拾遺28」
遠野では、この「母也明神」の話はかなり有名であり、その伝説に従い母也堂があり、また人柱となった夫婦を堰神様祀ってある。奈良の大仏建立でも、かなりの人柱が立てられたと聞くが、実際にどれだけの人柱が横行していたのかは謎のままである。
宮守のめがね橋というのがあるのだが、昭和初期にその土台から、お歯黒の女性の骸骨が出てきたのだという。もしかして、その骸骨もまた人柱としての犠牲だったのでは?という事だが。。。
この「母也明神」に関連する話があるかどうか調べてみたが、インドに似たような話が存在した。インドのある国の王が、可愛い娘の聟の強さを恐れて、畜生類を供えても水が湧かぬ涸れ池の中に馬に乗ったまま立たせると、水が湧き出してきたのだという。しかし聟は恐れる事無く、馬の膝まで来た、我が膝まで来た、我が背まで来たと歌いながら、いよいよ水に没したという。しかし王の可愛い娘であり、その憎き聟の妻もその後を追って、その池に沈んでいったという物語がある。策を巡らし、憎き聟を陥れたのだが、それと共に可愛がっていた大事な娘をも失う話は、物語的ではある。多分ではあるが、仏教が広まった頃に、一つの仏教説話として、この話も日本に伝わったのではないだろうか?遠野のこの堰は、阿曽沼が支配する以前、大同年間に造られたものだという。同じ頃には、早池峰神社を頂点とする神話が作り上げられた時期でもあるのだ。